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幕末本因坊伝

幕末本因坊伝【26】日本棋院囲碁殿堂資料館(7)源氏物語の囲碁描写

[1月29日] 幕末本因坊伝【26】日本棋院囲碁殿堂資料館(7)源氏物語の囲碁描写 庚午 一生   源氏物語の作者、紫式部は囲碁をたしなむ女性の棋風から女性像を浮き彫りにして読者に伝えようとしている場面がある。物語の前半に登場する空蝉(うつせみ)の君と、宇治十帖(うじじゅうじょう=源氏物語五十四帖のうち最後の十帖)をめくると浮舟の君に係わる箇所で、囲碁に興ずる女性の立居振る舞い、からだのこなしから言葉のやりとりの描写で二人のヒロインを作り上げている。そして、光源氏を通して女盛りを...(05/01/29) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【25】日本棋院囲碁殿堂資料館(6)源氏物語に登場する囲碁描写

[1月22日] 幕末本因坊伝【25】日本棋院囲碁殿堂資料館(6)源氏物語に登場する囲碁描写 庚午 一生  日本古来からの絵画に囲碁将棋の対局風景が登場する。小説や映画で表現される囲碁の場面は武将とか旦那衆など身分の高い人たちの対局が多い。だが、江戸期の浮世絵には遊女の調度品として碁盤石が描かれている。なぜ、そこに囲碁があるのか。囲碁と遊女の表現の理由などについて興味がそそられ、私なりに理屈を考えてみることが多くなった。 ...(05/01/22) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【24】日本棋院囲碁殿堂資料館(5)日本棋院加藤理事長追悼記 一期一会のえにし

[1月15日] 幕末本因坊伝【24】日本棋院囲碁殿堂資料館(5)日本棋院加藤理事長追悼記 一期一会のえにし 庚午 一生  故加藤政夫氏(日本棋院理事長、囲碁棋士九段)は昨年12月30日、脳梗塞と合併症のため東京都内の病院で死去。57歳だった。お別れ会は21日午後2時から東京都千代田区五番町七の二、日本棋院会館。主催は日本棋院で代表は工藤紀夫理事長代行。...(05/01/15) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【23】日本棋院囲碁殿堂資料(4)ヒカルの碁の影武者モデル碁聖一世本因坊道策だった

[12月18日] 幕末本因坊伝【23】日本棋院囲碁殿堂資料(4)ヒカルの碁の影武者モデル碁聖一世本因坊道策だった 庚午一生   閑話休題(その三) 日本棋院囲碁資料館の初代殿堂入りした四人のうち三番目は道策さん。この世に碁聖と仰がれる棋士は二人だけ。一世は石見(いわみ)の国=島根県西部=出身の第四世本因坊道策と、それから百五十年後に出現した備後の国(広島県東部)因島の第十四世本因坊跡目秀策。...(04/12/18) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【22】日本棋院囲碁殿堂資料館(3)囲碁の聖地「京都・寂光寺」殿堂入りした初代本因坊

[12月11日] 幕末本因坊伝【22】日本棋院囲碁殿堂資料館(3)囲碁の聖地「京都・寂光寺」殿堂入りした初代本因坊 庚午一生  閑話休題 初代殿堂入りした四名のうち徳川幕府初代将軍家康さま(1542―1616)の次は、織田信長―豊臣秀吉―徳川家康の三代に渡る天下人に仕えた近世囲碁史の開祖と伝えられる初代の本因坊・名人・碁所となった算砂(1559―1623)=画像=にスポットをあててみた。 ...(04/12/11) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【20】日本棋院囲碁殿堂資料館(1)殿堂入り4人が決まるまで

[11月27日] 幕末本因坊伝【20】日本棋院囲碁殿堂資料館(1)殿堂入り4人が決まるまで 庚午 一生  閑話休題 11月15日、東京・市ヶ谷の日本棋院本院で催された棋院創立80周年記念式典に列席する機会を得ましたので、記念事業として建設された囲碁殿堂資料館のオープンの模様など何回かに分けてお伝えしたいと思います。したがって「秀策と尾道の医師土居咲吾」についてはしばらく休載しますのでご了承願いたい。...(04/11/27) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【19】秀策偉人伝の人間描写土居咲吾渡米航海日記より(2)

[11月13日] 幕末本因坊伝【19】秀策偉人伝の人間描写土居咲吾渡米航海日記より(2) 庚午 一生  尾道市が1988年3月、新幹線尾道駅開業・市制施行90周年記念に発行した市制要覧おのみちの「尾道人物誌」によると  土居咲吾(どいしょうご) 元の名は長尾幸作(浩策)。天保6年(1835)中浜で開業する医師長尾良俊の長男として生まれる。20歳で京に上り蘭学を、さらに24歳で江戸に出て英語を学ぶ。万延元年(1860)咸臨丸に便乗して福沢諭吉らと渡米、西洋医学と英学を修めた。翌文久元年(...(04/11/13) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【18】秀策偉人伝の人間描写 土居咲吾渡米航海日記より(1)

[11月 6日] 幕末本因坊伝【18】秀策偉人伝の人間描写 土居咲吾渡米航海日記より(1) 庚午 一生  後世、碁聖と称される本因坊跡目秀策だが、人間それぞれの生き方や性格、癖があるものだ。幼いころから囲碁の天才、神童、怪童と、もてはやされた幼名虎次郎。九歳のころ、十代三原城主浅野甲斐守忠敬の庇護を受けて江戸は官賜碁所名人本因坊丈和に入門した。傍目には良き師に恵まれ天賦の素質に花が咲いたとうらやましがられたが、人生というものはなまやさしいものでない。これまで本因坊秀策の生涯について時代を...(04/11/06) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【17】秀策に纏わる短編集「囲碁中興の祖碁聖道策」

[10月30日] 幕末本因坊伝【17】秀策に纏わる短編集「囲碁中興の祖碁聖道策」 庚午 一生  近代囲碁の基礎ともいえる道策流《定石》を編み出し、わが国初めての国際対局を試みた。琉球王国の第一人者として送りこまれてきた親雲上比賀(ぺいちんはまひか)は、道策の妙技に驚きの目を見張った。濱比賀は「ぜひとも」と、道策に指導を乞い、帰国のさいには「上手に対し二子」の免状を四世本因坊道策として贈った。...(04/10/30) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【16】秀策に纏わる短編集「囲碁中興の祖碁聖道策」

[10月23日] 幕末本因坊伝【16】秀策に纏わる短編集「囲碁中興の祖碁聖道策」 庚午 一生   本因坊家に入門した道策はプロ棋士を目指して修業研鑚に励む日々が続いた。徳川の世は江戸城を核として経済文化都市づくりの槌音が高鳴っている中で囲碁界も新しい時代への模索がはじまった。徳川家康に京都から江戸へ呼び寄せられた囲碁宗家といわれる四家は総元締めとなる官賜碁所就位をめぐって虚々実々の争いが絶えなかった。...(04/10/23) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【15】秀策に纏わる短編集「碁聖本因坊道策取材紀行」

[9月25日] 幕末本因坊伝【15】秀策に纏わる短編集「碁聖本因坊道策取材紀行」 庚午 一生  幕末の囲碁界で人気絶頂であった秀策の棋士生活の中で、囲碁発展のため活躍すべき時代的背景は余りにも不安定であった。しかし、幕府の庇護をうけている本因坊家の生活が苦しいとは考えられないが、それほど幕府自体が幕末の動乱直前の真っ只中にあり、物価高による貨幣価値の下落等で庶民の台所まで影響を及ぼしていたことがうかがえる。...(04/09/25) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【14】秀策に纏わる短編集「本因坊秀和不覚の遺恨試合」

[9月18日] 幕末本因坊伝【14】秀策に纏わる短編集「本因坊秀和不覚の遺恨試合」 庚午 一生   一目差で逃げ切り大金星をあげた井上因碩錦四郎は「ただ夢中だった」と、お城碁をふりかえる。後半の寄せはどう打ったのか、まったく覚えていなかった。約束をほごにされた上に体調不良によって碁所をめぐっての争碁に破れた井上因碩玄庵先生の怨念が乗り移っての戦いだったように思える、と錦四郎は述懐する。...(04/09/18) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【13】秀策に纏わる短編集「本因坊秀和不覚の遺恨試合」

[9月11日] 幕末本因坊伝【13】秀策に纏わる短編集「本因坊秀和不覚の遺恨試合」 庚午 一生  家元の反応は、安井家と林家が本因坊秀和の「碁所願い」を承認。井上因碩と傍家長老坂口仙得は不承知であった。なかでも井上一門にとっては、坊門や昔日の因縁があってのこと。このことについて元千葉大学長故荒木直躬氏は、第十二世本因坊丈和の強引な戦法は打ち過ぎで、のちのちまで碁所問題に祟っている、と書き残している。...(04/09/11) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【12】秀策に纏わる短編集「本因坊家も手元宜しからず」

庚午 一生   碁所就位を井上因碩錦四郎に阻止されたことは、因果応報とはいえ秀和にとって無念であった。それも表向きは幕府の命令とあっては致し方なかった。...(04/09/04) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【11】秀策に纏わる短編集「本因坊家名人碁所不許可」

[8月28日] 幕末本因坊伝【11】秀策に纏わる短編集「本因坊家名人碁所不許可」 庚午 一生  本因坊家十四世の当主となった秀和は九歳年下で二十歳になったばかりの秀策を跡目にした。秀策は備後(広島県東部)因島の出身で、幼名を虎次郎といい、江戸・本因坊家に入門して頭角を現した天才棋士である。...(04/08/28) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【10】秀策に纏わる短編集「呉で見つかった秀策肖像画」

[8月21日] 幕末本因坊伝【10】秀策に纏わる短編集「呉で見つかった秀策肖像画」 庚午 一生  わが国囲碁史上、最強の実力者として知られる第十四世本因坊跡目秀策(1829―62)だが、秀策の棋譜百局を集めた「敲玉余韻(こうぎょくよいん)」など名局集は数多く残されているが、その実像は分っていなかった。...(04/08/21) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【9】秀策に纏わる短編集「第十四世跡目秀策誕生旧記」

庚午 一生  棋界の頂点を目指す秀策にとって、本因坊跡目の推挙は名誉なことであり、これまで支援してきた三原候浅野甲斐守忠敬をはじめ幼少期に囲碁の基礎教育をした竹原の宝泉寺住職葆真和尚、尾道問屋筋の橋本吉兵衛竹下ら旦那衆にとっても喜ばしい話であった。だが、郷里の秀策ファンは一様に郷土の誇りと期待していた寵児をお上に取りあげられた心境で心底から歓迎するわけにいかず複雑な心境であった。...(04/08/07) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【8】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「井上家と本因坊家養子縁組で和解」

庚午 一生  そのお城碁のあとに催される「お好み碁」で秀和と因碩が対局する組み合せを画策した。もちろん、因碩の陰謀である。  因碩は井上家を代表する八段。秀和は本因坊家跡目の七段であるが実力ナンバーワン。しかも、因碩が八段といえども段位下の秀和に二連敗しているので、順序からいえば因碩黒番で秀和が白で対局するのが順当であった。ところが、それでは因碩の目的が達せられない。あくまでも白番で勝敗を決するこ...(04/07/31) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【7】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「名人碁所をめぐる大一番」

[7月10日] 幕末本因坊伝【7】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「名人碁所をめぐる大一番」 庚午 一生  一門の盛運を賭けての大勝負は打ち掛け、中断をはさんで通算九日間の激突。両者の精魂はつき果てた。わけても敗れた井上家代表の因碩にとって失望落胆は当人でなくては測り知れないものがあった。しかも、若僧とあなどっていた秀和は登り坂にあり、自らの体力的な限界を知らされた。初戦で苦杯をなめた因碩であったが、自らの体調を考え、この一局だけで争碁の継続を断念した。...(04/07/10) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【6】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「名人碁所をめぐる大一番」

庚午 一生  本因坊家の秀和と井上家の幻庵因碩の対局は、これが初めてではなかった。名人碁所就位をめぐる争碁の一年前のこと。天保十年に両者は三番の手合せをしていた。...(04/07/03) 全文 >>
 

幕末本因坊伝【5】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「本因坊家跡目の跡目」(04/06/26)

幕末本因坊伝【4】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「父の死を乗り越えて」(04/06/19)

幕末本因坊伝【3】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「栴檀は双葉より」(04/06/12)

幕末本因坊伝【2】秀策書簡集より悲運の第十四世秀和(04/06/05)

幕末本因坊伝【1】秀策書簡集より悲運の第十四世秀和(04/05/29)