幕末本因坊伝【3】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「栴檀は双葉より」

掲載号 04年06月12日号

前の記事: “第9回因島自由大学 マザー・テレサに学ぶ 全国から聴講生が集う
次の記事: “約束

庚午 一生

 土屋家は、代々名主をつとめている旧家。婿入りした和三郎が一家の長に収まったが家族の人間関係は複雑であった。前妻と後妻の間に三男三女をもうけたが、後妻の力にとって俊平は独り息子。同じ兄妹といっても姉の子供よりも腹をいためた我が子の方が可愛いのは当然である。

 そのことは、夫の和三郎が百も承知の上で「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」と、俊平の碁才を萌芽させ囲碁の道で大成させてやりたい父親の願望であった。さらには、近郊の碁打ちの仲間の後押しもあって、それが俊平の将来のためだと決めていた。

 だが、子供のこととなると、男親と女親との思いが違ってくるのは世の常。いくら俊平のためだといっても家族や妻にも相談しないで九歳になったばかりの少年を連れ出して、無断で江戸に置いてくるとはとんでもない、と、和三郎を責めた。

 若くして名主を継ぎ、西伊豆の知名士であった和三郎であったが、泣く子と婦女子には勝てない。大所高所から俊平の才能を開花させたい思いを訴えたが養子の立場もあって不甲斐無い結果となった。やむなく江戸本因坊家を訪れてことの次第を丈和に告げ俊平を小下田に連れ戻すことにした。

 その帰途のことである。諦めきれない和三郎は、未練がましくも沼津に立ち寄って俊平を万屋の十二歳の少年と再び打たせてみた。一カ月も経っていないというのに互角で打ち分けた。僅かな期間にこれほど技量を伸ばしたわが子の素質と指導環境の重要さを確信した和三郎は勇気百倍。小下田に帰って家族を説得、再び江戸に上り改めて本因坊丈和に入門の許しを乞うた。

 文政十一年(1828)のことである。のちの第十四世本因坊秀和の跡目秀策が生まれる一年前のことであった。

この頃の時代的背景

 ここで、当時の囲碁界と時代的背景についてふれておこう。徳川幕府は、家康以来囲碁と将棋を奨励し有力な家元に扶持(手当て・給料)を与え支援していた。囲碁でその恩恵を受けていた門流は、本因坊、安井、井上、林の四家で「棋院四家」と呼ばれた。これらの家系は世襲でなく、門人の中で最も技量のすぐれた棋士が家元を継承した。

 その家元の総元締めが「官賜碁所(かんしごどころ)」で、名人(九段)であることが就位の条件とされていた。これを「名人碁所」とも呼んだ。年に一度のお城碁(御前試合)の対局組合せや段位の認定、免状の発行、その他一切の権限をつかんでいるので収入以外に名声も上がってくる。囲碁界最高峰の地位である。

 このため江戸時代の囲碁史は、名人碁所をめぐって棋院四家の抗争が繰り返されている。争いごとは棋力の実力の勝負で始まるが、各家元の総元締めにある「碁所」の座を獲得するためには、実力以外に世才や幕府権力にとりいる政治力も必要だった。歴代本因坊家は、他の三家を押えて碁所を保持しつづけた名門。十四世本因坊秀和・俊平や跡目秀策・虎次郎が入門した当時の師、十二世本因坊丈和は官賜碁所の地位にいた。
(この項続く)

E

トラックバック