幕末本因坊伝【5】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「本因坊家跡目の跡目」

掲載号 04年06月26日号

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庚午 一生

 名人碁所十二世本因坊丈和は、安藤如意の著した「坐隠談叢」によると「短躯肥大眉太く頬豊かにして従容迫らざれども爛々たる眼光犯すべからざる風」があったと書いている。今風にいえば、背丈が低くて、ぼってり肥え、丸顔で太い眉の下からきらりと眼は光っていたということだろう。

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棋風は豪快にして緻密、石をせり上げてゆく時の迫力は、まさに力(ちから)山を抜くの概があり、歴代本因坊の中でも第一級にランクされる」と述べている。

力は山を引き抜くほど強く、意気は天下を圧するほど盛ん―の意は、いささかオーバーな表現だが「抜山蓋世(ばっざんがいせい)」は中国楚(そ)の項羽(こうう)が、今は最後と覚悟を決めたときの詩の一句で、白髪三千丈(約九千メートル)のたぐいとうけとめたい。

いずれにしろ江戸には碁の家元が四家あり、それぞれの一家から名人を出して丈和名人の引退で空位になる幕府の碁所就位を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたことはまちがいない。こうした野望に燃えていた各家元のなかで丈和が最も手強(てごわ)い人物として注目していたのは第十一世井上因碩(幻庵)であった。

丈和は、自分の引退後のことを思うと不安であった。本因坊十三世を継がせた丈策は、碁界の中で人格識見を備えた人物で公儀の信用も厚かったが、棋力は六段。実力では因碩にやや劣るかもしれない。跡目の秀和は、年が若いが本因坊家では筆頭の実力だが、ここ一番の大勝負になると精神的なもろさがある。そこで二十歳になったばかりの秀策を跡目の跡目にして一門安泰の布石を打った。

丈和が引退して名人碁所が空席になると、井上因碩がすかさず碁将棋衆をたばねる幕府の寺社奉行に名人御所就位を願い出た。

詳しいことは省くが、八人目の碁所に就任した丈和をめぐる争いは「文化文政の暗闘」とか「天保の内訌(ないこう=うちわもめ)」といわれている。丈和は六年後に碁所を井上因碩に譲るという密約をして就任したが実行しなかった。井上家は、丈和に欺かれたという怨み骨髄。丈和が六年で碁所を引退したのも、こうした背景があったからであろう。願い出を受けた寺社奉行は、天保十一年六月、井上因碩と十三世本因坊丈策との争碁(あらそいご)を申し渡した。

因碩が勝ったら碁所就位を認めようというわけで、負けると空位のままになる。ところが、このとき本因坊丈策は病気で床に臥していた。そこで本因坊家は跡目の秀和が代わりに対局することを願い出て許された。

争碁の第一局は同年十一月二十九日、神田小川町の寺社奉行稲葉丹後守の自宅で秀和先番で打ち始められた。井上因碩八段、四十二歳。本因坊跡目秀和七段、二十一歳であった。

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