幕末本因坊伝【2】秀策書簡集より悲運の第十四世秀和

掲載号 04年06月05日号

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庚午 一生

 第十四世本因坊秀和と秀策の関係は、安芸浅野藩のお抱え棋士桑原秀策が江戸本因坊家の跡目として養子縁組をしたことで秀和が師であり養父という間柄になった。

 家元制度は日本独特のもので、他の国ではこうしたシステムは希である。当時、囲碁は本因坊家、井上家、安井家、林家の四家。将棋は大橋本家、大橋分家、伊藤家の三家が幕府から認められ、扶持を与えられていた。

 芸能分野の家元と違っているところは、勝負を争う実力の世界だから、一門のナンバーワンが後継者に選ばれるのが原則になっていた。こうした実力至上主義が江戸の碁界の水準を高めたともいえるだろう。

 その一方で、家元をまとめる総本家ともいうべき官賜碁所(かんしごどころ)の地位に就くには、囲碁名人としての実力のほかに知徳体の人格もそなえなくてはならなかった。碁所名人の第十二世本因坊丈和亡き跡のこの地位をめぐっての秀和の人物像に迫ってみよう。

西伊豆の旧家天才少年

 第十四世本因坊秀和の幼名は土屋俊平。文政三年(1820)静岡県西伊豆の君沢郡小下田村の生まれ。土屋家は、甲斐武田の落人土屋新左衛門の一族として代々名主(なぬし=庄屋)をつとめた旧家であった。父和三郎は現在の三島市安久から入婿、土屋家の長女皆(みな)とのあいだに二男一女をもうけたが皆が二十七歳で早世したため、皆の妹力(りき)と再婚一男二女ができた。俊平は後妻の子であった。

 和三郎は若くして小下田村の名主をつとめ学識もあったが、碁もかなりの打ち手であった。その父から手ほどきを受けた俊平は、八歳のころには近村の大人たちがかなわなくなり西伊豆の神童、怪童ともてはやされた。

 文政十一年、俊平九歳のときのことである。和三郎は俊平を連れて三島大社のお祭り見物に出かけた。三島在所の安久村の実家に立ち寄り俊平の囲碁自慢をしていたところ沼津に碁の強い十二歳の天才少年がいるという話を耳にした。さっそく沼津に出向いて対局を願ったが四目置いても歯がたたない。惨敗だった。

 ショックを受けたのは俊平よりも父親の和三郎だった。上には上があるものだ。井の中の蛙大海を知らず―と、思い知らされた和三郎は、指導力のふがいなさを痛感、我が子の才能を信じる余り江戸に出てよい師匠に就かせて修業させる決心をした。思い立ったが吉日―と、その足で俊平を連れて江戸に向った。

 当時、江戸で囲碁の頂点に立っていたのは第十二世本因坊丈和であった。丈和は伊豆西浦木負(きしょう)村(現沼津市)の出身であることから息子を内弟子にしてほしいと頼みこんだ。同郷のよしみもあって丈和も快く引き受けた。

 ところが、大喜びで伊豆に帰った和三郎であったが、ことの次第を聞いた家族は猛反対。すぐにでも俊平を連れ帰るよう和三郎の独断を責めた。

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写真は幕末の天保四傑の一人だった第十四世本因坊秀和。

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