幕末本因坊伝【9】秀策に纏わる短編集「第十四世跡目秀策誕生旧記」

掲載号 04年08月07日号

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庚午 一生

 棋界の頂点を目指す秀策にとって、本因坊跡目の推挙は名誉なことであり、これまで支援してきた三原候浅野甲斐守忠敬をはじめ幼少期に囲碁の基礎教育をした竹原の宝泉寺住職葆真和尚、尾道問屋筋の橋本吉兵衛竹下ら旦那衆にとっても喜ばしい話であった。だが、郷里の秀策ファンは一様に郷土の誇りと期待していた寵児をお上に取りあげられた心境で心底から歓迎するわけにいかず複雑な心境であった。

 藩内の異論を押し切って藩士並みの扶持を与え江戸・本因坊家へ囲碁留学させた三原候をはじめ郷里の秀策後援者は大成した暁には帰省させ藩内の指導者として迎える心づもりだった。

 そして、若いながらも思慮深い秀策は、郷里の人々に対する思惑や義理をいやというほど解っていた。その上、故郷で年老いて行く両親のことなど考え合わせ跡目の話を固辞した心情は計り知ることができる。

 九歳で故郷を離れ上府した秀策は、生涯に四度帰郷している。その度に、因島の外浦に船が着くと、まず、本家浜本屋の桑原八三郎宅を訪れ帰郷の挨拶。その後で、生家に帰って両親に対面するという礼節を守ったと桑原家旧家に書き残されている。さらに、日常的な親孝行はできなかったが、ことあるごとに手紙を送り、書画や金品を届けて両親兄妹を喜ばせている。

 こうしたことなどを考えると、本因坊家に転籍することをためらうのも理解できる。

 幕府に差し出した「親類書」を「本因坊家旧記」によってみると、秀策の父輪三の生家、三原城下西野村で代々庄屋を務めていた安田の姓を名乗らされていた秀策が、この跡目願い書には「松平安芸守領分備後国御調郡外之浦百姓 桑原輪三」の二男を名乗っている。大人の環境の中で育ち、適応を強いられた幼青年期を振り返えり生家を思うあまり束の間の桑原家を名乗ることが最後の抵抗であったのだろう。だが、実家は肥料から雑貨類を手広く商っていた商家であったが、あえて「百姓」と記したのは、江戸時代の封建社会の「士農工商」という階級概念がそうさせたのではなかろうか。

 ともあれ”お上(かみ)”には、さからえない時代であったことはまちがいない。本因坊旧記によると、嘉永元年十二月十五日午前七時、当主第十四世本因坊秀和につき添われて江戸城に出仕、時の将軍第十二代徳川家慶に御目見え、第十四世本因坊跡目秀策として名を披露、正式に御城碁出仕の棋士として前人未踏の十九連勝への第一歩を踏み出すことになる。

 この話は、間もなく郷里に伝わった。三原藩出仕因島外浦の棋士桑原秀策でなくなったことに郷里の人たちは一抹のさびしさは感じながらも、虎次郎―栄斎―秀策の成長、そして大出世に心から喜び合ったという。特に尾道の大旦那橋本吉兵衛竹下翁は、この喜びを一詩に賦して秀策に贈った。

 秀策の棋員に挙げらるるを聞きて喜び作る。
 策や六、七蔵、対局敵手稀なり、相伝えて神童と称し、其の名を天下に馳す。今年府命下り棋坊の異材に挙げられる。策や本(もと)より父母に孝にして老来(ろうらい)の衣にはぢず。後天美徳を眷(めぐ)み、福禄自然に来る。誰か言わん。技倆に由るのみ、小数は奇とするに足らずと。

 この詩文を通じ、竹下翁の秀策への深い思いやりがうかがえる。いつものことながら秀策の人柄を高く賞し、その親孝行をたたえ、大成を期すと共に、我が子の如く慈(いつくし)んでいたことがわかる。

〕 老来=中国春秋時代の賢者、老莱子(老子)が嬰児の衣を着て親をなぐさめたという故事。

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