幕末本因坊伝【11】秀策に纏わる短編集「本因坊家名人碁所不許可」

掲載号 04年08月28日号

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庚午 一生

 本因坊家十四世の当主となった秀和は九歳年下で二十歳になったばかりの秀策を跡目にした。秀策は備後(広島県東部)因島の出身で、幼名を虎次郎といい、江戸・本因坊家に入門して頭角を現した天才棋士である。

 嘉永三年夏、秀和は八段に進み名実ともに日本囲碁界の第一人者となった。これまで本因坊家とは不仲であった林家の隠居、元美(十一世)の八段昇進を本因坊家として正式に認め長年反目していた林家と和解した。

 本因坊家は、安泰、囲碁界は平穏な時代が訪れていた。その頃は、ペリー率いる黒船が浦賀や下田に来航、日本中が攘夷か開港かの両論に分かれ世情騒然としていたが、碁打ち衆には直接関係ないことだった。

 十四世本因坊秀和の無敵時代が続き、嘉永七年(一八五三)秋には囲碁の指導書「棋醇」上下二巻を著わした。だが、平穏な歳月は長続きしないものである。安政二年(一八五五)十月二日、江戸が大地震に見舞われ、国内外の政治情勢もあわただしくなり、この年のお城碁は中止になった。

 嘉永七年十一月二十二日付(一八五四)秀策が江戸から郷里因島の父輪三にあてた手紙に地震の様子がくわしく書かれている。

 それによると、地震の発生は十一月四日、震源地は伊豆相模の国。大地震のあとの津波で豆州下田の千軒余の町のうち、わずか十八軒が押し流されずに残っただけ。死人千人余。諸役人方も丸はだか、異国船も大損したと耳にしています。その他、伊勢、大阪、泉州、紀州地方も津波の被害は大きかったそうですが、父上様にはすでにご存じのことと思います。

 以上のように被害の様子が手際よくまとめられている。江戸屋敷の様子は「御国屋敷御無難」とあり、芸州浅野藩屋舗の無事を報らせ「異国船大破」とあるは、この年の十月和親条約締結のため下田港に入港していたプーチャン率いるロシア軍艦のことと思われる。

 「日本国中、大変故当年は”御好碁(おこのみご)”もこれ無く残念のこと・・・。来年よりお城碁中止の心配仕り候」ともあるが、嘉永七年十一月二十七日安政と改元され、世情も険悪となり秀策の言葉通り棋士生活の環境もきびしくなってくるのだった。

 碁界にも危機感がただよい始めた安政六年、名人碁所をめぐって死闘を繰り返した十一世井上因碩幻庵が六十二歳でこの世を去った。

 その年の十二月、秀和は十二世本因坊丈和の隠居で空位になっていた名人碁所就位願を寺社奉行に提出した。幻庵が存命中は自重していた秀和であったが、その気づかいの必要もなくなった、と判断した。技量も実力日本一であることは碁界が認めていた。年齢も四十歳になっていた。

 だが、この性急な請願に十三世井上因碩を継いだ松本錦四郎が横槍を入れた。「わが幻庵師が逝って年も改まぬのに碁所出願とは人道に反する。許すわけにはいかぬ」と、天保の争碁で無念にも敗れた幻庵の一念に燃えた。

 井上因碩錦四郎は、武家の出身で硬骨漢の士であったが、くやしいが囲碁の実力では秀和にとてもかなわなった。そこで旧主であった幕府の老中、久世大和守広周(くぜやまとのかみひろただ)の袖にすがり、秀和の碁所就位阻止を働きかけた。あらゆる手段をつくして、秀和の願いを引きのばし、ついに却下した。

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桑原家に伝わる秀策書簡の巻物。現在この中に十二通が収められている。

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