幕末本因坊伝【17】秀策に纏わる短編集「囲碁中興の祖碁聖道策」

掲載号 04年10月30日号

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庚午 一生

 近代囲碁の基礎ともいえる道策流《定石》を編み出し、わが国初めての国際対局を試みた。琉球王国の第一人者として送りこまれてきた親雲上比賀(ぺいちんはまひか)は、道策の妙技に驚きの目を見張った。濱比賀は「ぜひとも」と、道策に指導を乞い、帰国のさいには「上手に対し二子」の免状を四世本因坊道策として贈った。

 [註] 手合い割りについて― コミ碁(ハンディ)が導入されていなかった昔は、手合い割りが棋士の番付ともいうべき命であった。一段差違うごとに手合いが異なり、まず同じ実力の対戦を《互先》といい、黒白交互に打つ。実力差が一段違うと《先相先》先々先ともいい、黒・黒―白の順に、三番勝負のうち二番を黒を持ち、一番だけ白。二段差は《定先》単に先ともいい、毎局黒をもつ。二段差は《先二》先と二子を交互に打つ。四段差は《二子》常に上手に二子を置く。この番付から評価すると、濱比賀は道策名人八段に最初は四目置いての対戦であったが指導によって二目上達したことになる。

 道策は碁聖とも囲碁中興の祖とも称されているが、その先祖は毛利元就の孫輝元の家老、松浦但馬守(一五五三)が初代。禄高一万石だった。だが、関ケ原没後、毛利方は石見地方を徳川家に没収されて松浦家は現在の島根県太田市山崎に移り住み、その地方名の山崎姓を名乗った。その後、石見銀山関連の海上輸送港となる迩摩郡仁摩町馬路に移り、定住した。

 道策は元禄十五年、江戸で没した。忠臣蔵の討ち入りがあった翌年のことである。ちなみに前聖道策、後聖丈和(十二世本因坊)の御城碁の成績は道策十四勝二敗。丈和は七勝二敗。二人とも二回の敗戦は二子、三子の置碁だった。二子、三子のハンディは、上手がいくらうまく立ち回っても下手がミスをしない限り容易に勝てない。こういう前例を参考にして十四世本因坊跡目秀策は「置き碁の組み合せを付けないでほしい」と師の秀和に頼み込んだ。秀策の御城碁十九連勝という前人未踏の偉業と無関係でなかったという人もいる。

 島根県の誇りである道策は、後世囲碁棋士を志す青少年の目標にもなって、この地方から全国的なプロ棋士が輩出している。

 実弟の千松が、のちに江戸の囲碁元四家の中の一門、井上家の三世井上因碩として後を継いでおり、甥の半十郎が九世井上因碩因砂に。時代は下って安政のころ石見銀山領大屋(現太田市大屋)から岸本佐一郎六段、明治になって熊屋厳励五段が出ている。このうち中国地方で碁豪と名を轟かせていた岸本六段が尾道の慈観寺で本因坊跡目秀策が青年のころ対局。さらに石見地方の益田市から昭和に入って岸本薫和が本因坊位に立った。昭和二十五年岩本本因坊は広島県・能美島出身の瀬越憲作九段と共に島根県仁摩町馬路の山崎家を訪ね、菩提寺「満行事」の顕彰碑、墓碑にぬかづき碁聖本因坊道策の遺徳を偲んでいる。

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 道策没後、約四百年。山崎家=写真=には道策が幼いころ使ったという碁盤、自然石の碁石をはじめ狩野揮林が描いた十三歳から本因坊位につくまでの肖像画四点、江戸から実家への手紙、琉球国の濱比賀に与えた免許状の写しなど多くの資料が残されている。

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