幕末本因坊伝【23】日本棋院囲碁殿堂資料(4)ヒカルの碁の影武者モデル碁聖一世本因坊道策だった

掲載号 04年12月18日号

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庚午一生 

 閑話休題(その三) 日本棋院囲碁資料館の初代殿堂入りした四人のうち三番目は道策さん。この世に碁聖と仰がれる棋士は二人だけ。一世は石見(いわみ)の国=島根県西部=出身の第四世本因坊道策と、それから百五十年後に出現した備後の国(広島県東部)因島の第十四世本因坊跡目秀策。

 ここ数年前から小中学生や女性層の間で囲碁ブームを巻き起こしたのは「少年ジャンプ(集英社)」に連載された『ヒカルの碁』の人気がきっかけとなったものだ。主人公の進藤ヒカルが碁に目覚めプロ棋士を目指してゆくストーリーだが、ヒカルに碁を教える人物が平安時代の天才棋士藤原佐為(架空の人物)の幽霊という設定。佐為がヒカルに碁を教える前は、本因坊秀策に教えたことになっており、漫画の中でヒカルは因島にある秀策の墓参りをしている。原作者、ほったゆみさんも取材のため同地を訪れている。ほったさんは、この漫画の構想をねっていたころ、最初は道策さんにしようと思っていた。ところが時代が遠くなり過ぎるので秀策に変更したーと、因島にある秀策生誕の地「碁聖閣」で打ちあけられたことがあった。

 今年11月15日の日本棋院創立80周年記念事業としてオープンした殿堂資料館の式典でお会いした道策出生の山﨑家十三代目当主の尚志(たかし)さんは「漫画ヒカルの碁以来、若者や家族連れの観光客が多くなって・・・」と、にが笑い。昨日も因島囲碁協会の方々が仁摩町に来られて親善対局されていたようです・・・という。その会話に割って入ったのが本因坊算砂ゆかりの京都・寂光寺住職大川定信さん。「こうして本因坊家の方々が一同に顔を合わせるのもいいもんですなー。ところで徳川さんの顔が見えませんなあー」と、心配笑。「こんなことでもないと世が世なれば将軍さまにお会い出来ませんもんなあー」という問いかけに控室の空気がやわらいだ。

 道策について伝わる話といえば、徳川時代の初め、今から三百数十年前、士族の山﨑七右衛門の二男として生れた。幼名は三次郎。生母の手ほどきで碁をおぼえ、やがて近くのお寺で指導を受けるようになった。島根県仁摩町の生家跡には『折檻(せっかん)井戸』が残っており、よほど厳しい家風であったことがうかがえる。

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 十三歳で江戸に出て三世本因坊道悦の門に入り、二十三歳で御城碁に初出仕。翌年は道悦の跡目となり、延宝五年(1677)には「名人・碁所」に推挙され幕府より「碁所の証文」を授かり若くして最高の地位に登りつめた。その棋力は十段とも十四段ともいわれ御城碁の成績12勝2敗だが、2敗というのは向う2子局の碁だけ。後世における秀策の19連勝にはおよばないが、段位制や御城碁制度をととのえ、元禄時代の隆盛をもたらせ近代への道を開いた棋力、人格ともにそなわった「碁聖」と仰がれている。写真は道策さんのリーフレットと島根県仁摩町の生家。

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