幕末本因坊伝【18】秀策偉人伝の人間描写 土居咲吾渡米航海日記より(1)

掲載号 04年11月06日号

前の記事: “青少年ホーム祭 700人で賑う
次の記事: “数増せる血液サラサラとうレシピ元の二人となりし厨に

庚午 一生

 後世、碁聖と称される本因坊跡目秀策だが、人間それぞれの生き方や性格、癖があるものだ。幼いころから囲碁の天才、神童、怪童と、もてはやされた幼名虎次郎。九歳のころ、十代三原城主浅野甲斐守忠敬の庇護を受けて江戸は官賜碁所名人本因坊丈和に入門した。傍目には良き師に恵まれ天賦の素質に花が咲いたとうらやましがられたが、人生というものはなまやさしいものでない。これまで本因坊秀策の生涯について時代をたどりながら記述してきたが、観点を変えて、秀策の人間性を描写、考察してみた。

 この章の標題、土居咲吾という人物であるが、彼の本名は長尾幸作(浩策)といい、後に尾道に住んだ。万延元年一月、勝海舟の率いる軍艦「咸臨丸」に福沢諭吉らと共に乗り組み米国に渡って語学や医学を学んだというから興味がわいてくる。

 咸臨丸=写真=といえば、一八五九年江戸幕府がオランダに建造させた軍艦・蒸気内車船。全長一六三フィート(約五〇メートル)全幅二四フィート(約七・三メートル)大砲十二門。徳川幕府が遣米使節新見正興の随行艦として日本人操艦による最初の太平洋横断に成功。原名をヤパン号といった。

 その時の長尾幸作の航海日記と滞米日記ともいえる「亜行日記鴻目魁見(こうもくかいじ=大きな目とすぐれた耳)」「亜行記録」と秀策の書簡による長尾との関係にふれることができた。

 長尾幸作は芸州山県郡原村土居が原(広島県山県郡豊平町下右)から尾道町中浜に移り住んだ医師、長尾俊良の長男である。天保六年十月生れというから秀策より六歳年下。父俊良は広島藩医宍戸大俊に医術の道を学び、後に高野長英に蘭学を学んだと伝えられる。

 幸作は、この父の背中を見て育ち向学心に燃えていた。安政二年、二十一歳のとき京都に上り医学を学んだあと四年後の二十五歳で江戸に上った。

 薩摩藩の坪井芳州の門に入り蘭学を学んだが、この頃から英語の必要を悟った。そこで、咸臨丸アメリカ派遣の計画を耳にした長尾は百万奔走して情報を手に入れた。どうしても渡米を果したい一念から木村摂津守の従者(お供をする職務)として咸臨丸に乗り組むことに成功した。

 米国の医療の現状を見聞した長尾は帰国後まもなく、父が死亡したため尾道に帰り開業医として地域医療に専念することを決心した。この間、広島浅野藩の内命により軍艦購入のため上海に渡ったこともあり、明治初年、三原藩松浜に三原洋学所が開設された時には、その取締方に任命された。

 江戸の福沢諭吉からの上京の誘いも断って、尾道に腰を据えた長尾は医業の傍ら英語塾を開いて教導。土居遊戯園は、現在も尾道幼稚園として続いている。

 彼は明治十八年、五十一歳で亡くなったが、秀策が尾道の後援者である橋本吉兵衛(静娯)と橋本長右衛門宛に送った書簡の中に「長尾」の姓が出てくる。囲碁関係以外で出てくる異色の人物の一人であり、当時の時代的背景をうかがい知る上でも例記しておきたい。

 この話は秀策が嘉永七年十一月二十三日付で書いた書簡にさかのぼる。

E

トラックバック