幕末本因坊伝【26】日本棋院囲碁殿堂資料館(7)源氏物語の囲碁描写

掲載号 05年01月29日号

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庚午 一生 

 源氏物語の作者、紫式部は囲碁をたしなむ女性の棋風から女性像を浮き彫りにして読者に伝えようとしている場面がある。物語の前半に登場する空蝉(うつせみ)の君と、宇治十帖(うじじゅうじょう=源氏物語五十四帖のうち最後の十帖)をめくると浮舟の君に係わる箇所で、囲碁に興ずる女性の立居振る舞い、からだのこなしから言葉のやりとりの描写で二人のヒロインを作り上げている。そして、光源氏を通して女盛りを過ぎたとはいえ、空蝉の内面の美や女の心うちを語りつくしているように思える。

 一方、空蝉とは対照的に若く美しい浮舟は、田舎育ちで和歌の理解もなく、琴も弾けぬ。つまり教養の低い女で若さと美形で公達たちを魅了したものの恋は成就しない。自己主張が強く、気性の激しさもあって自殺未遂の末、尼寺に匿われる。浮舟はここで身分も告げず、名前も明かそうとしなかったが、そんな彼女が尼僧に誘われて唯一、興じたのが囲碁だった。しかも、大変な腕前だった。

 ここが作者の狙いであったのではなかろうか。平安時代の身分低く薄幸なヒロインが、披露した特技がまさかと思われる囲碁である。これを知って驚いたのは作中に出てくる尼僧だけでない。読者たちもまた、ここで囲碁の名手、浮舟という女性へのイメージを立て直すことになる。そして、作者の紫式部は囲碁を打つ女にどのようなイメージを持っていたのだろうかと思いをめぐらす。一般的には、囲碁の強い女=頭のいい女、記憶力・思考力のある女、気が強くて負けず嫌いな女…と思う人ならば、その人の浮舟像になろう。髪を下ろして尼になった浮舟は、一見して優美な女の激しい自己主張。自分の人生を自分で切り開こうとする女性像を囲碁の名手という特技を与えて読者のメッセージにしたのではなかろうかとも思える。

 話は平安時代から一足飛びに戦国時代に移るが、徳川家康は諸将の動向を探ったり「対局」を通じて人物評定などに意を注いでいたと伝えられる。それほど囲碁の盤石は人の心のうちまでさらけ出すというわけである。

 家康が囲碁に接した時期は不明だが、記録に残っているのは41歳のとき(1587)初代本因坊算砂に出会っている。そして51歳のころから急速に囲碁に関する記録が増えている。何かにつけ宴席に囲碁・将棋の棋士を招き、碁友・碁敵をつくり、心を通じ合える「布石」を考えていたと思われる。さらに、囲碁四家元を江戸に呼び寄せ保護し230年に渡る御城碁制度の基盤を固めるなど日本の国技にまで高めた。こうした功績を称え日本棋院囲碁殿堂資料館の初代殿堂入りに選ばれている。

 ところで、天下人に仕えた初代本因坊算砂だが、永禄2年(1559)京都生まれで8歳で京都寂光寺に入っている。囲碁の師は境の仙也ということは分かっているが経歴は不明である。初めは日海と呼ばれていたが、当時、寂光寺は八つの塔頭(どうとう)伽藍(がらん)があり、その一つの塔である「本因坊」で修行したことから本因坊と呼ばれるようになった。卓越した才覚を認められた算砂は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三大天下人に囲碁の指導で仕えるようになる。信長から「名人の所作である」と称えられたのは算砂19歳のときであった。


源氏物語、空蝉・浮舟の場面

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