幕末本因坊伝【22】日本棋院囲碁殿堂資料館(3)囲碁の聖地「京都・寂光寺」殿堂入りした初代本因坊

掲載号 04年12月11日号

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庚午一生

 閑話休題 初代殿堂入りした四名のうち徳川幕府初代将軍家康さま(1542―1616)の次は、織田信長―豊臣秀吉―徳川家康の三代に渡る天下人に仕えた近世囲碁史の開祖と伝えられる初代の本因坊・名人・碁所となった算砂(1559―1623)=画像=にスポットをあててみた。

本因坊算砂

 11月15日の日本棋院囲碁殿堂資料館オープンに殿堂入りした算砂ゆかりの代表として招かれた大川定信氏は僧衣で、それとわかった。名刺には顕本法華宗、本因坊発祥本山寂光寺とあった。

 ところで、第一世本因坊算砂名人碁所は永禄二年京都に生れ、幼名を加納与三郎といった。六、七歳のころ京都・寂光寺の日淵人の門に入り剃髪して日海と改めた。仏道修行の傍ら堺の仙成也に囲碁を師事。たちまち天性を開花して師を上回り、十九歳のとき織田信長に召し出されてその技量に感服した信長に「名人」とたたえられた。名人の呼称はこれから始まったといわれる。この時、信長は日海に対し五子の手合いであった。天正六年(1587)信長從二位に敍せられたときの祝賀記念対局の記録が寂光寺に残っている。

 天正十年(1582)本能寺の変の前夜、信長の御前で鹿塩利賢と対局した碁が偶然にも「三劫(こう)」となり無勝負としたが、三劫を不吉とする本能寺の対局の譜が伝えられる。

 信長亡きあと秀吉に召され碁を勤め、天正十三年(1585)秀吉が関白になったとき諸国の碁打ち衆を集めて御前対局を催した。日海は無敗という抜群の成績。秀吉は寂光寺に対し米四石を与え、朱印状を発行した。文禄元年(1592)には朝廷から権大僧都を任ぜられ、秀吉歿後、慶長八年(1603)家康征夷大将軍となって以来、本因坊算砂と名乗り家康に従って江戸に下った。算砂は五十石五人扶持さらに碁所兼将棋所に任ぜられ、終身三百石を与えられたが、将棋所は大橋宗桂に譲った。

 登場のさいは緋の衣を纏い、袋入長柄の傘を用い、下乗際まで乗輿(乗り物)を許された。京都へ還るときは三千貫の旗下格(旗頭直属のはたもと)で品川以西の街道を往来したという。元和年に入り韓人李杓史が来朝、算砂に三子置いて完敗したという。同九年(1623)碁所を弟子の中村道碩にゆずり、同年5月16日「碁なりせば劫を打っても活べくに 死ねる道には手もなかりけり」と辞世を残し没す。法名日海上人、京都・寂光寺に葬る。

碁道名人第一世本因坊算砂之旧跡

 大正十二年遺徳をしのび京都市左京区仁王門通東大路西入南側の寂光寺山門入口に「碁道名人第一世本因坊算砂之旧跡」=写真上=と彫んだ石標が建立された。

 なお、近年になって囲碁の聖地「寂光寺」でのプロ棋士による指導碁と宿坊の旅などが企画されている。

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