幕末本因坊伝【8】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「井上家と本因坊家養子縁組で和解」

掲載号 04年07月31日号

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庚午 一生

 そのお城碁のあとに催される「お好み碁」で秀和と因碩が対局する組み合せを画策した。もちろん、因碩の陰謀である。

 因碩は井上家を代表する八段。秀和は本因坊家跡目の七段であるが実力ナンバーワン。しかも、因碩が八段といえども段位下の秀和に二連敗しているので、順序からいえば因碩黒番で秀和が白で対局するのが順当であった。ところが、それでは因碩の目的が達せられない。あくまでも白番で勝敗を決することを望んだ。そうしないと碁所就位の目標に近づく意味がなかった。

 こうして因碩は、七年ぶりに江戸城内で行われるお城碁に出仕した。天保六年以来ずっとお城碁を欠場していたが、碁所就位にかける執念から将軍家の「お好み碁」にこと寄せて秀和と公式の対局する機会が与えられたからである。

 だが、この一番も本因坊跡目秀和の四目勝ちで終った。因碩、痛恨の三連敗。絶望のどん底に突き落とされた十一世井上因碩幻庵は、名人碁所の夢を断念、弘化三年(1846)隠居した。そして十二世本因坊丈和の長男・戸谷道和(幼名梅次郎)を井上家の養子に迎え、本因坊家と和解した。

 隠居後の幻庵は諸大名家に出入りしながら著述活動に専念、「囲碁妙伝」など著作を残している。一方、本因坊家では弘化四年(1847)、当主十三世丈策、隠居十二世丈和が相次いで世を去り、二十八歳の秀和が十四世本因坊に就いた。

桑原秀策 本因坊跡目に

 年号は変って、嘉永元年(1848)十一月、秀和は、かねてより官賜碁所十二世本因坊丈和が「我が一門に百五十年来の門風が吹く」と、目をかけていた備後(広島県)因島の出身で三原浅野藩公からの預り弟子であった安田秀策を跡目にした。この間のいきさつについて説明を加えておこう―。

 名人本因坊丈和と準名人井上因碩が引退した江戸時代をさかのぼること百五十年前。後世、碁聖と仰がれる四世本因坊道策は延宝五年、道悦の引退後、官賜碁所就位に異論をとなえるものもなく、その人格実力とも底知れぬものがあった。それ以来、百五十年ぶりに現われた逸材が幼名桑原虎次郎―安田寛斎―栄斎であった。そこで、丈和名人十四世秀和の「秀」と道策の「策」の字をとって栄斎改め秀策と命名した。安田姓は秀策の父輪三の生家、三原城下の御調郡西野村(現三原市)で代々庄屋を勤めた安田家を名乗っていた。

 秀策は三原浅野公から十二人扶持の録を食み、いまだ旧恩に報いていないことをあげ、あくまでも外弟子であることを主張、跡目の推挙を断り続けた。だが、そこは天下の本因坊家。寺社奉行脇坂淡路守の仲介もあって三原藩主浅野甲斐守忠敬公をくどき落し秀策を説得した。この時、寺社奉行から幕府に提出された本因坊跡目願書は次のように安田姓でなく桑原姓を名乗っている。

親類書

松平安芸守領分備後国御調郡外之浦百姓
一、 父     桑原 輪三
右同領分 同国 同所 百姓
一、母     桑原八三郎(死)娘
右同領分 同国 同所 百姓
 一、兄     桑原源三郎
 松平安芸守領芸州豊田郡船木村百姓
 一、妹     島田伊之助妻
 右の外忌掛り之親類無御座候以上
  嘉永二年九月十六日
       本国 生国 備後 桑原秀策印

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