幕末本因坊伝【7】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「名人碁所をめぐる大一番」

掲載号 04年07月10日号

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庚午 一生

 一門の盛運を賭けての大勝負は打ち掛け、中断をはさんで通算九日間の激突。両者の精魂はつき果てた。わけても敗れた井上家代表の因碩にとって失望落胆は当人でなくては測り知れないものがあった。しかも、若僧とあなどっていた秀和は登り坂にあり、自らの体力的な限界を知らされた。初戦で苦杯をなめた因碩であったが、自らの体調を考え、この一局だけで争碁の継続を断念した。

 ところで、この因碩対秀和の争碁は、二十番碁として始められたという定説だったが、近年になって井上家から出てきた記録によると、実は四番碁であったといわれる。いずれにしても、二局目は打たれておらず、一番打っただけで因碩が寺社奉行あてに願い出た「碁所」就位を撤回している。あえていえば、体調不良のまま争碁をつづけ不覚を取ると、本因坊家に碁所を奪われ元も子も失う。なによりもプライドが高く、先をよみ切る因碩の幕ひきの手際よさに興味をひかれる。

 ともあれ、この一件で名人碁所に就こうとした井上幻庵因碩(いんせき)の夢は一頓挫したかに思われた。だが、因碩の野望は捨てきれず再起を担い虎視耽たん。そして天保十三年(1842)五月、因碩―秀和のリターンマッチが実現することになった。

 但し、二年前に因碩の体調不良によって自ら争碁を願い下げているので公式戦とは認められない対局である。しかし、この対局で秀和の黒先番を破れば、再度「碁所」願いの口実ができると因碩陣営は踏んでいた。もとより再挑戦を受けた秀和をはじめ本因坊家一門もこの一番勝負の重大さはわかっていた。

 対局は五月十六日、旗本磯田助一郎宅で始まった。オープン戦とはいえ、本番の前哨戦ともいえる真剣勝負。観戦者にとってはこれほど見ごたえのある局面はない。

 打ち掛けとは翌日に引き継ぐことであるが、初日は六十九手まで。二日目の十七日は徹夜で打ち継ぎよく十八日の昼、二百七十手で終局となった。黒番秀和の六目勝ちだった。

 因碩は、あきらめ切れない。どうしても碁所就位という碁界の頂点をきわめたかった。そこで、ある一策を決断した。天保六年以来欠場していたお城碁に出仕して将軍家の前で秀和と対局して一石を投じる試みである。

 お城碁の始まりは家康が駿府城で行った御前試合といわれ、やがて江戸城に移り、十一月十七日と定められたのが享保年間のこと。最終は文久三年で、幕末の動乱、明治維新へと変革して行く。この間、御城碁出場棋士は総計六十七人、対局人数五百三十六人で江戸二百六十年囲碁史の決算である。

 棋士にとって御城碁出場は名誉なことで、もっとも有名なのが広島県因島市出身の本因坊跡目秀策の連続十三年出場、十九連勝という大記録。定例手合いのほかに「お好み碁」が含まれている。

 定例の手合いの組み合せは例年十一月はじめに家元四家が集まって決め、寺社奉行の許可をもらって対局の運びとなる。御好み碁は、定例の対局碁のあと、将軍や家老たちの声がかりで興味ある棋士を選んで対局させる嗜好。

 出場棋士は家元、跡目は段位が問われないが、その他の棋士は七段以上が出場資格。特別に家元の推薦で五段以上であれば出場を許されることもあった。そして、御城に上がるには、剃髪して僧侶の服装が定められていた。

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御城碁対局場となった江戸城御黒書院

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