幕末本因坊伝【12】秀策に纏わる短編集「本因坊家も手元宜しからず」

掲載号 04年09月04日号

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庚午 一生 

 碁所就位を井上因碩錦四郎に阻止されたことは、因果応報とはいえ秀和にとって無念であった。それも表向きは幕府の命令とあっては致し方なかった。

 秀和が碁所就位をあせった理由は、当時の本因坊家の経済が裕福なものではなかったことがうかがえる。その一つに安政六年(一八五九)十二月、跡目秀策が郷里因島の父親に宛てて「本因坊も手元宜しからず」という次のような手紙が残っている。

 別紙申し上げ候。此の度東灰屋より目貫か小刀か両様の内、頼み越し候に付、小刀買取り相送り申し侯。右代金拾三両私払い置き灰長より請取り申すべき処、久々御無沙汰仕り候付呈上仕り候間、灰長より御請取り下さる可く侯。明春御状下され候節此の儀は書中え御認め之れ無く候ても宜しく御座候 尊書は妻も拝見致したがり申し候間万事申し上げ候事斗りにて宜しく候。東灰屋より御請取りの節同人え請取書御渡し成され右を同人より相届き候様御計り下さる可く侯。御手元悪しき儀は私も存じ居り候得共、私も不都合故御無音多く恐れ入り申し候。御状には成る丈け御手元の儀御申し越し之れ無き様願い上げ侯。御手元の悪しき儀は一同存じ居り候得共本因坊も手元宜しからず、厄介も多々、私より送金仕り候儀成る丈け外え知らせ度く之れ無く候間右の噂御含み下さる可く侯。

 先生名人一件安井、林承知、添願致し候積り也、因碩、仙得不承知、何れ当月中頃までには寺社奉行え願書差し出し候積りに御座候 勝負さへ打ち候得ば師匠の業に候間、勝ち申すべく、何卒故障之れ無き様仕り度く、祈る処に御座候。

 この書簡はその書き出しにて判るように別に前文がある筈である。或は安政六年十一月十八日付のものに同封したようにも考えられるが不明である。

 この書簡は秀策が尾道の東灰屋即ち橋本長右衛門に依頼された品物(小刀)を送るに際し、父に送金したことを知らせ併せて当時の本因坊家、桑原家の経済関係を記し、末尾に秀和の名人碁所願について書いて居る。幕末物情漸く騒然とし、物価は漸次高騰し貨幣価値も日増しに低下するこの苦しい時代を本因坊家、桑原家両家の経済について心を砕いて居ることが窺われる。しかも父に対する送金等は妻花子には内密で行われたものも多く秀策の盤外の手段の並々ならぬことも示して居る。

 当時本因坊家の勝手元が豊かでないと書いて居るが、本所相生町二丁目にあった本因坊家には、丈和名人後妻勢子、秀和夫妻、秀策夫妻、葛野忠左衛門、同亀三郎等の多人数であっで五十石二十人扶持の禄では決して生活は安楽でなかったと考えられる。その上故郷の実家の経済まで陰ながら援助する訳である故相当のものであったであろう。

尊書は妻も拝見致したがり申し候間万事申しあげ候事斗りにて宜しく候

と別途送ったものについては何も書いて呉れるなとは、彼の苦衷を物語っている。秀和の名人碁所願は安政六年十二月二十日林門入同道で寺社奉行松平伊豆守に差出された。この願書には秀和は次の添書をした。

 「私儀当時八段の手合に罷り在り候間此度碁所願い奉り度き旨算知門入へ掛合に及びし処両人共承知に御座候。右に付因碩えも掛合い侯処不承知の旨申聞け候。年来相勤め両人承知の処、因碩未熟の業を以つて故障仕り甚だ難渋仕り侯間、同人御呼出し承知仕り候様御理解成し下され候様願い奉り候。」

 本因坊家記録によると秀和の碁所願の運動は、安政六年十月二日から始まって居るが秀策の願いも空しく成就しなかった。

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