幕末本因坊伝【15】秀策に纏わる短編集「碁聖本因坊道策取材紀行」

掲載号 04年09月25日号

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庚午 一生

 幕末の囲碁界で人気絶頂であった秀策の棋士生活の中で、囲碁発展のため活躍すべき時代的背景は余りにも不安定であった。しかし、幕府の庇護をうけている本因坊家の生活が苦しいとは考えられないが、それほど幕府自体が幕末の動乱直前の真っ只中にあり、物価高による貨幣価値の下落等で庶民の台所まで影響を及ぼしていたことがうかがえる。

 こうした逆境の中で鍛え抜いた偉大な棋力こそ、段位七段で34歳という若さでこの世を去った十四世本因坊跡目秀策(1829-1862)と、同じ「碁聖」と称される四世本因坊道策(1645-1702)とは異質の崇敬を払うべきだろう。

 徳川泰平の世になって地方の天才、神童、怪童と騒がれて江戸をめざした青少年は数え切れないほどいた。運よく生きのびた人。功成り名を遂げた人。後世になって偉人―賢人―聖人と仰がれた人。さまざまである。囲碁の世界でいえば数ある有名棋士のなかで「碁聖」と称されているのは石見(いわみ)の国=島根県仁摩町=出身の道策と備後の国=広島県因島市=の秀策の二人だけ。両賢者の因縁に百五十年間という隔たりはあるが、秀策の成長過程で不思議な糸で結ばれており、棋風がいかに影響したかをうかがい知ることができる。

 平成 4年(1992)10月12日朝。雷まじりの秋雨が通り過ぎた道策名人の聖地を訪れた。砂の鳴る琴ヶ浜と盆踊りが自慢の静かな半農半漁の島根県迩摩郡仁摩町。同県吉田町出身の故竹下登首相が全国の自治体に一律一億円をばらまいた「ふるさと創生事業」で平成三年三月オープンした日本一の砂時計「サンドミュージアム」が大ヒット。静かな町は一躍全国的に有名になり、朝から観光客が繰り込み様変わりしていた。

 町役場を訪れると「もう一つの日本一は、碁聖道策の生誕地であることだ」と、観光課の職員が目を輝かせた。町職員の案内で訪れた道策の生家は、踏みしめると砂が鳴る「琴ヶ浜」がすぐそこに見える旧家だった。土地の人は、この山崎家を「本山崎」と呼んでいる。

 今から約 350年前の徳川時代初期の正保二年(1645)、士族の山崎七右衛門の二男として生まれた道策は、 7歳のころ近くのお寺で囲碁の手ほどきをうけた。いまも生家に伝わる碁盤は厚さ20センチほどの松の古木。碁石は近くの琴ヶ浜で拾い集めたという黒色の自然石と白色の貝殻で作られたものである=写真=。

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山崎家に伝わる碁盤・碁石

 棋力は幼児のころから神童、怪童といわれ天才少年ぶりを発揮していたというから道策没後 150年ぶりに出現した天才棋士、因島出身の秀策となにもかも似通っている。異なっているのは道策が寺の住職から囲碁の手ほどき受けたのに対し、秀策は母からであった。もう一つは、道策の天才ぶりを見抜いたのは父、七右衛門で、当時13歳だった道策を連れて江戸に下り、本因坊道悦に入門を乞い、修業させた。

 現在の山崎家当主は十三代目尚志氏。道策が本因坊家に入門当時の肖像画や延宝 5年(1677)本因坊家を継いだころと思われる床几に肘をつき泰然自若とした肖像画などが保存されている。

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