幕末本因坊伝【14】秀策に纏わる短編集「本因坊秀和不覚の遺恨試合」

掲載号 04年09月18日号

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庚午 一生 

 一目差で逃げ切り大金星をあげた井上因碩錦四郎は「ただ夢中だった」と、お城碁をふりかえる。後半の寄せはどう打ったのか、まったく覚えていなかった。約束をほごにされた上に体調不良によって碁所をめぐっての争碁に破れた井上因碩玄庵先生の怨念が乗り移っての戦いだったように思える、と錦四郎は述懐する。

 相手を甘く見て不覚をとった秀和は、この敗北で名人碁所になれる最後のチャンスを逃がし、上り調子だった運勢が下降線へと逆回転を始めた。

徳川幕府末期の棋界

 翌文久二年(一八六二)のお城碁は江戸城火災のため中止となり、同三年は下打ちに溜り、元治元年(一八六四、文久四年二月改元)以降は下打ちも中止。徳川幕府崩壊、新政府となり明治維新を迎える。

 なによりも、錦四郎に不覚をとりくやんでもくやみ切れない傷心の秀和に次々と追い打ちをかけるような不幸がふりかかってきた。

 本因坊家跡目秀策が文久二年八月に急逝したのもその一つ。こうした本因坊秀和の苦境のころに跡目秀策が故郷の父に送った書簡を紹介しながら当時の世相をのぞいてみよう。

 徳川家康が碁所制度をつくり、年に一度のお城碁(御前対局)を催していた伝統行事が中断されたのは安政二年。この年は前年の伊豆相模の大地震に続き翌年秋の十月に江戸を中心にまたも大地震があった。江戸城も被害を受けお好み碁どころでなかった。それに加えて尊王攘夷倒幕論などで社会的不安もあった。

 嘉永七年十一月二十七日、安政と改元されたが、その三日前の同月二十二日付で秀策の父に宛てた書簡によると―

 (前略)御国表(因島)は地震ばかりにて、つなみこれなき趣承わり申し、いよいよ左様に御座候。右は日本国中大変故当年はお好み碁(お城碁)もこれ無く残念の事に御座候。来年よりは例に相成りお好みもこれ有る間敷哉と心配仕り候。近年不はずみの処御好みこれ無く候ては益々不はずみに相成るべくと存ぜられ候。何分にも不穏世の中恐れ入り候に御座候(後略)

 この手紙は、安政元年伊豆相模の大地震を父に知らせた一節であったが、この年にはじめてお好み碁が中止された。世情を見るに敏感だった秀策は、このお好み碁中止が今後の例になることを心配した訳だが、その憂は的中した。

安政の大獄と神田礼祭

 安政六年九月十七日付、尾道の橋本吉兵衛(静娯)宛書簡 (前略)水戸様も御謹慎仰せつけられ候。先の中納言様御国元の蟄居(ちっきょ)一つ橋様も、御隠居、その外御家人京地の鵜飼親子都合五人死罪仰せつけられ其の外京地より参り候人々遠島等御座候。(中略)去りながら当十五日の神田祭礼様は余程立派、上様上覧もなされ在り候。来春にも相成り候はば追々賑々しく相成り申す可くやと噂致し居り候。碁は更に打ち申さず、この節は余程下り候様存ぜられ候。(後略)

 このように安政の大獄の模様を秀策の後援者である尾道の大旦那橋本竹下の長男静娯宛に知らせたもので、国の大事の後の恒例の神田祭が立派に行われたことに希望をもち、世直しを祈っている秀策の心情がうかがえる。しかし「碁は更に打ち申さず、この節は余程下り候様存ぜられ候」と、棋力の低下を憂えている。

 さらには、維新直前の社会不安から、碁会も少なくなり、京都の豪商、松居太七もたびたび出府しては受け元となっていたものの見合わせるようになった。

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