幕末本因坊伝【10】秀策に纏わる短編集「呉で見つかった秀策肖像画」

掲載号 04年08月21日号

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庚午 一生

 わが国囲碁史上、最強の実力者として知られる第十四世本因坊跡目秀策(1829―62)だが、秀策の棋譜百局を集めた「敲玉余韻(こうぎょくよいん)」など名局集は数多く残されているが、その実像は分っていなかった。

 この世で碁聖と仰がれる棋士は二人だけ。その始祖である第四世本因坊道策(1645―1702)は、出生地の島根県仁摩町の生家に幼少時代に使った碁盤や狩野揮林が描いた十三歳から本因坊位につくまでの肖像画四点のほか江戸から実家への手紙などが残されている。今から四百余年前のものである。

 道策から百五十年後に出現した天才児秀策の生家である広島県因島市外浦町には母子愛用の碁盤や本因坊家から出された免許、書簡二十九通などが保存されているが肖像画は残されていなかった。

 もっとも、富山市藤園女子学園長増田永峰氏が所蔵していた秀策画像はあったが、肖像画というよりもイメージ画像で、その実像は〈幻〉だった。

 最近では平成四年六月(1992)広島県呉市の入船山記念館で江戸付き絵師、神岳が描いたという秀策肖像画(嘉永四年・1851)が見つかっている。

本因坊秀策

 この肖像画は、幅17センチ、長さ 1.9メートルの和紙の巻物の冒頭に「秀策先生肖像」として描かれている。僧衣に似た十徳姿でなく紋付き羽織、はかま姿で扇子を持った秀策が坐り、左横に碁盤、背後に大小二本の刀を配している。絵師は「神岳」とあり、江戸城付きの絵師ではないかという。
添え書きによると、肖像画が描かれたのは、嘉永四年の春。天保三歌人として知られる安芸の国(県西部)の住人、岡田清に幼なじみの秀策が江戸土産として贈ったとあり、岡田が秀策の略歴など書き添えて巻物に仕立てたらしい。

 嘉永七年といえば秀策は二十二歳。当時六段で十四世本因坊秀和の後継者の地位である「本因坊跡目」になり、十二世丈和の娘、花と結婚、毎年十一月十七日に江戸城内で開かれる御城碁で前人未踏の十九連勝のスタートを切った時代である。

 この肖像画が描かれた後、信州松代(長野県)へ行き、初段でありながら実力は黙許七段といわれた松代藩士関山仙太夫と歴史に残る「十二番碁」を打ち終えた後、秀策の連絡が途絶えた。心配した十四世秀和が信州の知人に書簡を送り、秀策の消息を尋ねる一幕もあったが、この間のいきさつは今もって雲につつまれている。信州では秀策隠密説が伝わっているが、それを裏付ける証拠はない。

 ともあれ、この肖像画は二十二歳にすればずいぶん老けて見える。秀策の兄孫にあたる因島の桑原八千夫氏(故人)は「昔の人は年齢以上に老けて見せる風潮があったのと風格を意識して描いたものだろう」と想像する。

 肖像画を見つけたのは、呉市阿賀北、近世文学会員宮尾敬三さん当時五十八歳で、極めて貴重な資料として注目されている。

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