幕末本因坊伝【19】秀策偉人伝の人間描写土居咲吾渡米航海日記より(2)

掲載号 04年11月13日号

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庚午 一生

 尾道市が1988年3月、新幹線尾道駅開業・市制施行90周年記念に発行した市制要覧おのみちの「尾道人物誌」によると

土居咲吾(長尾幸作) 土居咲吾(どいしょうご) 元の名は長尾幸作(浩策)。天保6年(1835)中浜で開業する医師長尾良俊の長男として生まれる。20歳で京に上り蘭学を、さらに24歳で江戸に出て英語を学ぶ。万延元年(1860)咸臨丸に便乗して福沢諭吉らと渡米、西洋医学と英学を修めた。翌文久元年(1861)には軍艦購入のため、上海、香港方面へ渡航、密航したとして送還投獄されるが、実際は藩命をおびての渡航であったといわれる。

 明治元年(1868)三原支藩が松浜(三原市糸崎町)に開いた洋学館の取締方に任じられ、英語を教える。このころ土居咲吾と改める。

 後に尾道へ帰り、医業のかたわら正授院に英語塾を開いて人材育成に尽くす。明治18年(1885)50歳で没す。著書に渡米記録「亜行日記鴻目魅耳(こうもくかいじ)」「亜行記録」がある。また、夫人のイト女史は県内幼児教育の先駆者。

 ―と、尾道を舞台として活躍した文人墨客など多彩な人物の中の一人にあげている。その土居咲吾であるが、若気(わかげ)の至り―ともいうべきか、故郷の誼(よし)みという縁もあって本因坊秀策から金を借りたまま音信不通。礼を尽さぬ長尾幸作のなおざり行為に立腹した秀策が郷土の先輩としてだまってはおれぬと尾道の橋本家や因島の父輪三に書簡を送った一件について当時のいきさつについて検証しておこう。

 秀策が嘉永七年十一月二十三日付で尾道の橋本吉兵衛(静娯)と橋本長右衛門宛に送った書簡に

 「私儀無異はばかり乍ら御休意下さる可く候。当年御用も滞り無く相勤め候間則ち写し差し上げ申し候。四通の中壱通は栄助へお届け壱通は長尾へ御届け願い上げ候・・・」

とある。この文中に出てくる長尾は医師の俊良のことで「御用」とは秀策のお城碁出仕を差していることはいうまでもない。この文面から察すれば、俊良も「碁譜」を送ってもらえる程の棋力があり、医師としての橋本家との関係だけでなく碁仇の友でもあったようだ。

 次は安政六年九月十七日付け秀策の書簡である。

 「長尾浩作先項参られ候節は留守其の後尋ね申す可く存じ候も其儀無く御地へ対し申し分もこれなき次第。然しながら其の内尋ね申すべく候・・・」

と書き送っている。長尾幸作が京都から江戸へ青雲の志を抱いて上ると聞いた父俊良をはじめ橋本家は江戸で出世している秀策を頼るよう添書を持たせた。浩作は上京間もなく本因坊家に秀策を尋ねた。折悪く秀策は不在のため会うことができなかった。

 同じ年の十一月十八日付、因島の父宛の書簡には

「東灰屋近年おとなしく人聞きも宜しく勢い玉の浦一人の由長尾浩策より承わり御同慶の儀に御座候・・・」

とある。長尾幸作が本因坊家を初訪問した二ヵ月あまり経ってのことである。東灰屋は橋本家の屋号であり、玉の浦は古くからの尾道港の異名。長尾と秀策が故郷の様子を話し合った様子が読みとれる一節である。

 ところが、次の万延元年(一八六〇)十二月二十一日付の書簡は長尾幸作について非礼きわまりないという長文が残されている。

(この項つづく)

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