幕末本因坊伝【4】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「父の死を乗り越えて」

掲載号 04年06月19日号

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庚午 一生

 晴れて江戸・上野車坂下の本因坊家道場に入った俊平は、掃除、洗濯、使い走り・・・と、内弟子修業に励んだ。丈和名人には梅太郎という息子がいた。俊平と同い年で師匠の御曹子と西伊豆・小下田村から出てきた内弟子という間柄。二人は生活環境の違いはあったが、お互いの子供心に通じるものがあり良きライバルでもあった。

 俊平が十一歳になった文政十二年(1830年)の秋、父和三郎が江戸に出て来た。

 この頃、山林、原野、池沼などに立ち入って木材やたきぎ、馬草、魚を共同で採取する入会権をめぐってもめごとが絶えなかった。そのもめごとを裁定するのは幕府の町奉行所の役目だった。そして、訴訟の書類や町奉行所の口添えをする役目は、木賃宿や旅籠の主人が携った。今でいう弁護士や司法書士の役目である。

 こんな古文書に出くわしたことがある。

 三重県津市のある旧家で見せてもらった訴状の写しであるが、藤堂藩(三重県)と紀州藩(和歌山県)の領民が肥料にするための海藻採取海域(藻場)をめぐっての争いで訴訟の手順など江戸の旅籠の主人に指南を受けている手紙の一節に目を止めた。

 「江戸町奉行、遠山金四郎左衛門尉にスルメ、梅干樽を贈ること・・・」というくだりである。遠山金四郎とは歌舞伎やテレビで演じられている「遠山の金さん」のことである。当時は儀礼的な挨拶がわりであったのだろうが、今風にいえば訴訟の便宜をはかってもらう袖の下、つまり賄賂ともとれる。

 話が本題からそれたが、西伊豆小下田から訴訟のため江戸にやってきた和三郎と息子の俊平は久しぶりの親子水いらずの再会を喜び近況を語りあかした。

 その数日後のことである。和三郎が旅籠で急死した。享年三十八歳という若さだった。悲報を受けた俊平は旅籠に駆けつけ父の遺骸にとりすがって泣いた。役人の検死をすませ和三郎の亡骸は江戸下谷の栄正寺に葬られ、のちに分骨されて西伊豆小下田の土屋家菩提寺、最福寺にも墓石が建てられた。一説によると、訴訟の反対者の手で毒殺されたとも噂されたが争いごとの再燃を配慮して真相究明は封印された。

 俊平は悲しさと悔しさに打ちひしがれたが十一歳の少年にはどうすることもできなかった。故郷の母、力(リキ)は「男児志を立て出府した俊平よ。いつまで悲しんでも詮無いこと。一日も早く一人前の碁打ちになることが亡父に報いる道と決め研鑚につとめるよう祈っている」と叱咤した。

 一つの壁を乗り越えると一歩目的に近づくことを体感した俊平は悲しみや苦しみを心の糧として成長していった。十二歳で入段(初段)十三歳になって剃髪、名を秀和と改めた。本因坊家はもともと法門で、有段者になると頭を丸めるしきたりがあった。武家の子の元服と似ている。師匠の丈和名人の一字をもらった秀和は、それほど将来が期待されていたわけで丈和の目にもくるいはなかった。

 門弟の中でめきめき頭角を現した秀和は、十五歳で三段、十六歳で四段、十七歳で五段、十九歳で六段、二十歳で七段と破竹の勢いで力を伸ばしていった。そこへもって、九歳年下の天才児、安田栄斎のちの跡目秀策がいたから本因坊家の将来は安泰と見られていた。

 天保十年(1839)十一月、名人十二世本因坊丈和は引退した。先師十一世本因坊元丈の長男丈策を十三世本因坊とし、跡目に土屋秀和を指名した。さらにその跡目に秀策を決めるという念のいりよう。なぜ、こんな念の入れようをしたのか、本因坊家の栄光を保持していくための丈和の苦心の策はなんであったのだろう。

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