幕末本因坊伝【1】秀策書簡集より悲運の第十四世秀和
掲載号 04年05月29日号
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はじめに
後世になって「碁聖」と仰がれる人は、古今東西を通じて、第四世本因坊道策名人と第十四世本因坊秀和の跡目で三十四歳という若さで亡くなった秀策の二人きりである。
囲碁史という未開拓の分野を棋力不足で浅学菲才の身を顧みず、碁聖と称せられる先人の棋理にまで入り込むことが許されないことは充分承知の上で執筆を決意、郷土因島が輩出した碁聖本因坊秀策伝記「虎次郎は行く」上・中・下巻を上梓した。
棋譜を通して人格の気高さまで読みとれる人はプロ棋士を含めても少数派に属するといわれていますが、囲碁を全く知らない子供さんやお母さんにも秀策先生に学ぶことができるのではないかーと、思ったのが執筆、発刊の決断でした。ところが、棋聖といわれるひとたちの事績であっても、少し突っ込むと通説とされていたはずのことがらが俗説となり根拠を失って伝説にとどまることも少なくありません。
信頼できる資料によって俗説をとりのぞいて、人文科学としての囲碁史を確立することは容易でないと思います。こうしたなかで、本因坊秀策の書簡が生家である因島市外浦町と秀策の後援者であった尾道橋本家に所蔵されている。この書簡によって秀策の赤裸々な棋士生活が解明されると共に、幕末の囲碁史や世情をうかがうことができる。改めて講談やつくり話でない秀策の人間性、幕末の碁界の実態、碁打ち気質(かたぎ)といったものを掴むことができれば幸甚に存じます。
江戸の囲碁界
まず、江戸時代の囲碁界についての概要を説明しておこう。
徳川幕府は、家康以来囲碁と将棋を奨励し、有力な家元を呼び寄せ一定の扶持(ふち=一人当たり一カ月玄米一斗五升の給与)を与えた。
囲碁界で扶持を受けていた門流は、本因坊、安井、井上、林の四家で「棋院四家」と呼ばれていた。現代の本因坊はプロ棋士のタイトル戦で勝った棋士の代名詞であるが、江戸時代の本因坊は有力な門流名の一つに過ぎない。そして、この門流の家系は、世襲でなく、門人の中で最も技量のすぐれた実力者が家元を継承した。その家元をまとめるのが「名人碁所(ごどころ)」で、幕府碁方の総元締めとなる職制で、、名人(九段)であることが就位の条件であった。
名人碁所の主な職務は、年に一度のお城碁出場者の指名、対局相手の組み合わせなどの采配をはじめ、段位の認定、免状の発行、その他、碁の行事に関する一切の権限を手中にし、莫大な収入と世間的な名声を得ることができた。このため江戸時代の囲碁界は、名人碁所をめぐって棋院四家の血みどろの抗争を繰り広げた歴史だったともいえる。
争いは棋力の勝負であるが、碁所の座を獲得するためにも実力以外に世才や幕府権力にとりいる政治力も必要だった。本因坊家は、歴代に渡り他の三家を押えてタイトルを保持した名門であったが、十二世本因坊丈和の引退で碁所を失ったから武士の仇討ちを思わすような死闘が繰り返され幕末の渦の中へ巻き込まれて行った。
その中心人物に失意のうちに五十四歳の生涯を終えた第十四世本因坊秀和=文政三年(1820)―明治六年(1873)=を上げたい。門下に桑原秀策、明治の囲碁界をリードした村瀬秀甫、実子の第十七世本因坊秀栄(名人)ら多くの人材を育て、近代囲碁の創始とも評価され、その棋譜は不滅の古典として今も光を放っている。
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