幕末本因坊伝【6】秀策に纏わる短編集 悲運の第十四世秀和「名人碁所をめぐる大一番」

掲載号 04年07月03日号

前の記事: “秀策囲碁殿堂入り記念公演 音楽劇「本因坊帰る」18日、因島市民会館
次の記事: “河川敷に花壇作られアジサイが川の流れに色を添えいる

庚午 一生

 本因坊家の秀和と井上家の幻庵因碩の対局は、これが初めてではなかった。名人碁所就位をめぐる争碁の一年前のこと。天保十年に両者は三番の手合せをしていた。

 初対局は三月、秀和先番で因碩の六目勝ち。二局目は四月で秀和が一目勝ち。一勝一敗のあと三局目は十月に行われ持碁(じご=引き分け)で、両者の対局は一勝一敗一引き分けという、まったく互角の成績だった。

 井上因碩にとっては、本因坊丈和引退後の丈策六段の力量なら自信があったが、跡目の秀和は伸び盛りの年齢であり、できれば争碁を避けたかった。

 たとえ因碩が勝ったとしても本因坊家の総師丈策でなく、代理の跡目秀和では囲わりが碁所就位に異論をとなえるだろう。負ければもちろん井上家に傷がつく。いずれにしろ得策でない争碁を避けて碁所を手に入れようと画策したが妙案はなく成功しなかった。

 いったん寺社奉行に争碁を申し出たからには中止するわけにいかない。十一月二十九日の対局開始日を迎え、二十番碁という大勝負が神田小川町の寺社奉行、稲葉丹後守の自宅で始まった。

 手合せ時間は巳の刻(午前十時三十分から)申(さる)の刻(午後五時三十分)までの七時間と定められ、安井算知や太田雄蔵ら天保四傑といわれる一流棋士たちが観戦した。

 因碩は一策を案じた。”先相先”という同格の対戦を拒み、八段の因碩に対し七段の秀和を”定先”という一目格下の条件を主張した。二十番とも因碩が白を持って対戦しようというわけ。この条件で勝率をあげるか、引き分けになったとしても名人碁所に任命されるものと踏んでいた。

 第一日目は、三十一手までで打ち掛け(一時中断)となり翌日に持ちこされた。二日目の十一月三十日は四十五手まで、三日目は月があけて十二月一日は七十一手まで進み、四日目の二日には九十一手まで進んで中盤戦に入った。

 両者は体力、知力、精神力の極限までせめぎ合い。へとへとに疲れていたが、いずれが優勢ともいえない展開だった。

 語り伝えられる俗説によれば、この対局の始まる前の秀和は重責に押しつぶされそうになり連日遊郭に入りびたって見得を切り不安な精神状態を酒と女でごまかしていたと伝えられている。

 幻庵因碩は強烈な個性の持ち主で、機略に富んだ天才的な棋士であった。一方、秀和は平凡な人柄で正統派の碁を身上としていた。争碁ともなれば本因坊家の浮沈を賭け、一門の期待をになって出場するわけである。あれこれとわずらっていても仕方がないから、ひらき直って度胸を据えてかかるしかなかった。

 十二月三日の第五日目に入った。碁は淡々として進行しているように見えたが、因碩の白石が秀和の黒地に切り込んできた。控え室にいた本因坊家の棋士たちに一抹の不安がよぎった。しかし、秀和は絶妙な手でしのいで逆襲に転じた。

 因碩の白地が苦しくなり、苦悩呻吟が伝わってきた。前かがみになって考え込んでいた因碩が突然、血を吐いて倒れた。この日は、わずか八手しか進んでいなかったが病気とあっては仕方がなく一時中断された。

 五日間の中断のあと、十二月九日再開された。これが第六日目である。白から打ちつがれたが因碩が再び倒れ、二度目の中断となった。十日休んで第七日目の十一日と翌日の十二日は奉行所の都合で夜を徹して打ち続けられ翌十三日巳の刻(午前十時三十分)に終局した。通算九日間にわたった争碁は文字通りの死闘で、秀和の四目勝ちとなった。

E

トラックバック