幕末本因坊伝【13】秀策に纏わる短編集「本因坊秀和不覚の遺恨試合」

掲載号 04年09月11日号

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庚午 一生

 家元の反応は、安井家と林家が本因坊秀和の「碁所願い」を承認。井上因碩と傍家長老坂口仙得は不承知であった。なかでも井上一門にとっては、坊門や昔日の因縁があってのこと。このことについて元千葉大学長故荒木直躬氏は、第十二世本因坊丈和の強引な戦法は打ち過ぎで、のちのちまで碁所問題に祟っている、と書き残している。

 丈和が碁所就位のさい「隠退後は十一世井上因碩幻庵を後継とする」と約束していた。それが口約束であったとしても約束は約束である。天保十年十一月、丈和が碁所引退後は、力量識見ともに世間が認めていた幻庵(玄庵)因碩を碁所に推すべきであった、と荒木氏は強調する。

 当時の幻庵は、準名人であり世評も悪くなかった。にもかかわらず、丈和は口約束であったがそれを守らず、秀和と争碁を打たせるなど強引な手法で幻庵碁所就位をことごとくじゃまをした。そのしこりが後に尾を引き、本因坊家へはね返り因果応報を生じ悲運の道をたどることになる。

 井上家傍系の坂口仙得が秀和の碁所願いに対し「そんなに急がなくてよろしかろう、いずれ名人碁所になれる名門と器量がそなわっているのだから」という言い分は長老らしい戒めであったろう。碁所争奪の火中に立たされていた秀和は、おいそれとあきらめるわけにいかなかった。

 それから二年後の文久元年(一八六二)十一月十七日、秀和と錦四郎がお城碁で顔を合わせることになった。両者の対局は過去一局、安政五年にあった。そのときは秀和が白番で六目勝っている。実力は誰が見ても秀和が上手である。

 今回の対局も、両家の当主対局で表向きは一年に一度の恒例のお城碁のはずであった。だが、本因坊家と井上家にとっては碁界の総元締である管賜碁所をめぐって因縁のある遺恨試合となった。

 棋力の差は歴然としていた。しかし、勝負の世界は何が起きるかわからない。本因坊跡目秀策がこんな手紙を故郷の父輪三に書き送り口惜しがっている。

「秀和先生意外の不出来、さてさて残念のことに候。先生の業にて因碩などは片手打ちにも勝ち申すべき碁に候えども、活き物ゆえこうなる儀も出来申し候」

争碁ともいえるこのお城碁は、因碩錦四郎の出来がよかった。布石から中盤にかけて好手を打ち継いだ黒有利の展開となって休憩時間に入った。秀和と親しかった伊藤松和らが心配して助言したが相手を甘くみて笑って聞き流した。

「なんのことはない。最後はひっくり返して見せる」と、秀和は対局室に入った。この日の錦四郎は上手の秀和にかなわぬまでも将軍上覧碁に恥じないような打碁に集中した。囲碁の神様が乗り移ったかのように一手の誤りもなく終盤へと打ち継いだ。

 寄せに入ると「なあに、そのうち」と受けに回っていた秀和の形相が変った。苦心さんたんした寄せの手順も及ばず一目の差が挽回できず錦四郎に逃げ切られた。秀和、不覚の敗北。本因坊家にとっても取り返しのつかない大きな一敗となった。

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静岡県土肥町最福寺の秀和の顕彰碑

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