幕末本因坊伝【16】秀策に纏わる短編集「囲碁中興の祖碁聖道策」

掲載号 04年10月23日号

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庚午 一生 

 本因坊家に入門した道策はプロ棋士を目指して修業研鑚に励む日々が続いた。徳川の世は江戸城を核として経済文化都市づくりの槌音が高鳴っている中で囲碁界も新しい時代への模索がはじまった。徳川家康に京都から江戸へ呼び寄せられた囲碁宗家といわれる四家は総元締めとなる官賜碁所就位をめぐって虚々実々の争いが絶えなかった。

 道策の師、本因坊三世道悦八段が安井家の算知と碁所をめぐる争い碁「六十番勝負」があったのもその一つの現われである。

 この勝負は一年がかりで二十回戦の対局か、もしくは三年間で六十対局して決めようという挑戦状だったというから気の長い話である。結果は、道悦が一局だけ算知に負けただけで、あとは道悦の完勝が続き、この勝負は二十局の対戦で決着がつけられた。

 この宗家の命運をかけた緒戦で敗色が濃くなり苦悩する道悦に弟子の道策が適切な助言を与えたことで逆転劇のヒントにつながったというから、その天分は計り知れない。

 「このころの碁は武士の組み打ちを連想するような《力碁》が主流。その頂点に位したといわれる算知の《棒石》は、文字通り大変な力碁だった。これに対して道策は、離れて戦う定石を編み出しており、その戦法を師、道悦に助言したのだろう」と、その道のプロ棋士は分析する。

 延宝五年、道悦の引退後、道策は四世本因坊に就位した。これまで、碁の家元四家は碁所をめぐって争いが絶えなかったが道策の就位に異議を申し立てる者はいなかった。道策の実力は十段とも十四段ともいわれたほどで底知れぬ棋力、人格ともに勝れていたと思われる。

 江戸城内で行われた御前試合ともいえる御城碁、お好み碁の対戦記録は、寛文七年から天和三年までの十五局中、一敗だけ。この一敗は当代の名手といわれた安井算知に二子を置かせて対局。一目の負け。道策は、この碁を省みて「忸怩(じくじ=恥じる)たるところなし」と郷里の山崎家へ手紙で伝えている。

 生涯を通じて御城碁十四勝一敗という道策の大記録を破ったのは、無敗の十九連勝を成しとげた備後国因島外浦出身の十四世本因坊跡目秀策で、道策没後百五十年後のことであった。

 ところで、徳川泰平のよき時代であったこともあり、道策の名声は琉球にも伝わった。琉球王は天知二年、貢物を贈るとともに琉球の囲碁界の第一人者である親雲上濱比賀(ぺいちんはまひか)を渡航させ九州の島津家で対局させた。この対局が実現したのは、道策の母が雲州(うんしゅう=出雲地方)刈田佐渡守の子女で、九州・細川越中守綱利(一六四二―一七一四)に乳を分けた〈乳母〉であった縁からだろうと推察される。

 ともあれ道策にとっても、徳川家にとっても国を代表しての国際親善対局は初めてのことで話題になった。結果は四目置かせて道策の中押しともいえる堂々十四目勝ちを収めたというから実力差は歴然としていた。道策の黄金時代の話である。

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 写真は島根県仁摩町の菩提寺「満行寺」の松林の中に眠る四世本因坊道策の墓碑は苔むしている。

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