出雲のカミガミ
小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【21】
大きな社殿。後小松天皇をはじめ、歴代天皇の御辰翰(ごしんかん)御物(ぎょぶつ)重要文化財の太刀(たち)、県指定の太刀、武具工芸品、書画、古文書など450余点を蔵し、これらを維持するだけでも気苦労は大きい。...(06/04/01) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【20】
そこで、私なりに「大蛇(おろち)伝説ですね」と問いかけた。「佐比売山(さひめやま)が噴火して流れ出る熔岩が、村人を襲った。それをヤマタノオロチになぞらえて語部(かたりぺ)が伝え、やがて神代神楽にアレンジされて、今もその伝説が受け継がれてきた」 浮布の池から望む三瓶山...(06/03/25) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【19】
同じ島根県でありながら石見(いわみ)と出雲(いずも)は方言がまったく違い、気性、顔付きまで異なっている。私たち旅人にさえそれが分かるので、「出雲王朝は今も生きているのですね」と、中田武範宮司におそるおそる尋ねてみた。...(06/03/18) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【18】
この饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は天照大神の孫といわれる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が命を受けて高天原(たかまがはら)から日向国の高千穂に天降るよりも、一足先に天降ったと記紀神話に書き記されている。...(06/03/11) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【17】
中国山地の小都市、三次盆地郊外から国道54号と別れ、江ノ川沿いにワニの街道を下った。石見銀山街道の一つでもあり、その昔は島根県側からの舟の交通路であった。集落は昔のままだが、近代交通網の変化と共に過疎化の波は押し寄せている。だが、そこに住む人は過疎の中で様々なイベントに挑戦している。...(06/03/04) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【16】
天孫族親衛隊司令官駐屯所 石州一の宮「物部神社」 司馬さんの出雲のカミガミの旅は、これで終わっているが、石州(せきしゅう)「一の宮・物部神社」について補足することにしよう。 (フリーライター・村上幹郎編・故司馬遼太郎追悼紀行) ...(06/02/25) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【15】
作家 庚午一生 「語部」のうち、古事記にも出雲風土記にも出ていない、重要な事項があるというのだが、それについてはW氏はなにもいえない、といった。それでは、と私は話題を変え、出雲であった多くの人々にしたような質問をW氏にもした。「あなたのご先祖は、なんという名のミコトですか」「私の、ですか」とW氏は少し微笑み、ながい時間私を見つめていたが、やがて「大国主命です」といった。...(06/02/18) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【14】
作家 庚午一生 物部神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫のカギをここであずかっていたという。出雲からそのカギを盗みに来たものがあり、物議をかもしたこともあったという。...(06/02/11) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【13】
作家 庚午一生 秋上(あきあげ)さんは、私の持って来た地図を神殿の前の地上にのべた。いちいち細かい地名を指でおさえながら「出雲民族をおさえるには、まず砂鉄をおさえることです。砂鉄の出る場所はココとココ。運ばれる道はコレとコレ。―」といった。いつのまにか、地図を指す秋上さんの横に秋上さんが飼っているらしい老犬がすりよってきた。犬はついに地図のうえに寝た。秋上さんは何度も犬を押しのけながら地図を指し...(06/02/05) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【12】
作家 庚午一生 新聞社の文化部で「子孫発言」という連載企画を担当していたとき…手持ちの材料が尽き、ついに松江支局を通じて、出雲国造家の千家尊祀氏に原稿を依頼した。しかし、いんぎんに断られた。理由は(支局員の代弁によれば)わが家は古来、大和民族の政治(?)に触れることが出来ない、というのである。私はおどろいた。新聞への寄稿が政治行為であるかどうかは別として、大国主命が天孫族に国を譲ったときの条約...(06/01/29) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【11】
作家 庚午一生 司馬さんの紀行文「生きている出雲王朝」は、さらにこう続いている。 …自動車が宍道湖畔に入ったときは、すでに夜になっていた。いつのまにか、雨が前照燈の光芒を濡らしていたが、すぐやんだ。やむと、すぐ夜空が晴れた。...(06/01/21) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【10】
作家 庚午一生 さて、出雲王朝のヌシである大国主命の降伏後の出雲はどうなったか―。 出雲へは「高天ケ原」から進駐軍司令官として、天穂日命(あめのほひのみこと)が派遺された。駐屯した軍営は、いまの松江市外大庭村の大庭神社の地である。ところが、この天孫人はダグラス・マッカーサーのような頑固な性格の男ではなかったらしく、神代妃下巻に「此の神、大己貴神に倭媚(ねいび)して、年に及ぶまで、尚ほ報聞せず」...(05/12/17) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【9】
作家 庚午一生 ここで司馬遼太郎先輩に再び登場していただこう。司馬さんが中央公論昭和36年3月号で「生きている出雲王朝」という紀行文を発表された。 出雲地方にとって都合が悪かったのか、出雲大社さんなのか、この号に限って出雲地方の書店は発売を禁止。さらには司馬さんが在職していた産経新聞不買運動まで起こった。 そのことはさておいて、ヘルンさんが出雲大社の神殿にまで案内された様子と司馬さんが見た大...(05/12/10) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【8】
作家 庚午一生 さらにヘルンは「大社が今よりずっと大きかった時代に通常の木材は、出雲の木材で得られたのでしょうか」と千家宮司に尋ねた。 写真 近年発掘された巨木3本を束ねた出雲大社の社殿跡の御柱。...(05/12/03) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【7】
作家 庚午一生 松江中学の教頭だった西田先生の紹介で昇殿をはたした西洋人ヘルンは、境内に入ることも稀なことを知っていた。いわんや日の神天照大御神の末商(まつえい)であり現身(うつしみ=現実に生きている姿)にあらざるお人として諸人から崇拝されている国造、千家専紀(せんげたかのり)宮司のお取り次ぎによる正式参拝である。へルンから見た千家宮司は、威厳を漂わせた美しいヒゲの人物で不思議な形の冠と白装束に...(05/11/19) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【6】
作家 庚午一生 敗戦後、天皇は国民の象徴として親しく接するようになったが、それ以前は生身の天皇の前での平民は、ひれ伏すだけで、顔を上げるものなら目がつぶれるとまであがめたてまつった時代を経験した人は少なくない。現代の若い人は失笑にふすだろうが、本当の話だから仕方がない。 ...(05/11/12) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【5】
作家 庚午一生 さきに、出雲大社の神主さんは、ただの宮司さんでなく国造(くにのみやつこ・こくぞう)であって、それも天孫降臨族の天照大神の一族であることを述べた。 ...(05/11/05) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【4】
作家 庚午一生 出雲人が心を開いてくれるのに3年はかかる、という島根県の県庁の所在地松江市に転勤したサラリーマンは、受け入れ側にとって外人部隊である。 そんな土地柄に、明治23年、英語教師として旧制松江中学に赴任して来たヘルン先生がよくぞいろいろのしがらみや障害を乗り越えて生活出きたものだと不思議にさえ思われる。 もっとも、全く日本語が分からなかったから、出雲弁も風俗風習も珍しいばかりで苦に...(05/10/29) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【3】
作家 庚午一生 昭和37年の晩春だったように記憶している。島根県浜田市の市街地を流れる浜田川堤防の柳の芽が伸び、緑の葉をそよがせていた風景が鮮明に残っている。 タタラ(製鉄所)と農民闘争を語部(カタリベ)が伝えたという神代神楽。オロチ退治の場面。...(05/10/22) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【2】
作家 庚午一生 出雲の国造はクニノミヤツコとよみ、音読してコクソウと呼ぶのだという。天皇のことを古い倭語でスメラミコトと呼び、音読してテンノウと呼ぶようなものだ。国造という古代地方長官というべき制度は、古事記によれば、日向(ひゅうが=宮崎地方)から来た「神武天皇」が、今の奈良県を征したとき、出雲民族だろうとされる大和の土豪津根(つるぎね)葛城(かつらぎ)の国造としたのが初めだとする。...(05/10/15) 全文 >>小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【1】(05/10/08)