小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【18】
掲載号 06年03月11日号
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この饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は天照大神の孫といわれる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が命を受けて高天原(たかまがはら)から日向国の高千穂に天降るよりも、一足先に天降ったと記紀神話に書き記されている。
その時に、十種神宝(とくさのかんだから)を奉じ天盤舟(あめのいわぶね)に乗って大和国(やまとのくに)哮峯(いかるがのみね)に天降った。その地で御炊屋姫命(ミカシヤヒメノミコト)を娶(めと)られ、物部神社祭神をお生みになった。神話になじみがない読者の皆様に申し訳ないが、今少し我慢をしていただきたい。
宇摩志麻遅命は、父神の遺業を継いで国土開発に尽くされ、神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くし、神剣「?霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」を賜った。
神武天皇即位のときは、五十串(いほぐし)を樹(た)て、?霊剣と十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿(ちんこんほうじゅ)を祈願された。これが鎮魂祭(みたましずめのまつり)の起源だと伝えられている。
その後、物部神社の御祭神は天香具山命(アメノカグヤマノミコト)と共に物部の兵を率いて尾張、美濃、越後を平定、さらに播磨、丹波を経て石見国(いわみのくに=島根県西部)に入り鶴に乗って鶴降山(つるぶさん)に降りられ国見して八百山が大和の香具山に似ていることからこの八百山の麓に宮居を築かれた。
物部神社に祀られている
宇摩志麻遅命神像
ざっとここまでが石見国一の宮「物部神社」の由緒である。こうした記紀神話に基づくと、物部氏の祖神は文武両道の神であり、国土開拓の神として古来より領主や武将など朝野の厚い信仰を集めていたことが理解できなくもない。
物部神社の中田宮司の話によると、昭和の戦争が終わるまで浜田連隊長が指揮して武運長久の祈願にやって来たもので、軍人の将校が靴を脱がなくても拝殿に上がれるよう「この通りコンクリートとイスにされたわけ」と、古来の建物と現代のミスマッチを比喩、苦笑いを浮かべた。
(つづく)
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