小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【13】

掲載号 06年02月05日号

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作家 庚午一生

司馬遼太郎 秋上(あきあげ)さんは、私の持って来た地図を神殿の前の地上にのべた。いちいち細かい地名を指でおさえながら「出雲民族をおさえるには、まず砂鉄をおさえることです。砂鉄の出る場所はココとココ。運ばれる道はコレとコレ。―」といった。いつのまにか、地図を指す秋上さんの横に秋上さんが飼っているらしい老犬がすりよってきた。犬はついに地図のうえに寝た。秋上さんは何度も犬を押しのけながら地図を指した。しかしそのつど、犬はしょうこりもなく地図の上へ身を横たえた。あきらめた秋上さんは「とにかく」と私を見た。「この入江を押さえて、あの山によりすぐりの兵を少々出しておけば、出雲族が少々蠢動(しゅんどう)してもビクともいたしません」

 気負い込んだ秋上さんの様子には、たったいまか高天ケ原からふりおりてきたような天孫族の司令官をほうふつさせるものがあった。私は話題を変えた。秋上さんの家から秋上庵之介(いおのすけ)が出たそうですね。秋上さんはあまりいい顔をしなかった。私はいそいで質問をあらためて「それで、天穂日命がここへきたとき秋上さんのご先祖はどういうお役目だったのです」

「武将ですよ。天穂日命の一族です。ですから天児屋根命(あめのこやねのみこと)の直系の帝です」

 と、はじめて豁然(かつぜん)とわらった。なるほど出雲的規模からみれば、戦国時代の勇士の話題などは、とるにたらぬ些事になるはずだった。とにかく出雲は、中央に対する被征服民族としての潜在感情が生きている反面、出雲を征服した天孫部隊の戦闘精神もまた、なお生きているような気がした。秋上さんは話がおわってから「出雲大社はけしからん」といって、こまごまとした現実の議をした。神族は神族同士で、われわれのうかがいがたい世話な事情があるように思われた。

 そのあと、出雲海岸を西へ走って石見との国境いに出た。同じ県ながら、石見と出雲は方言はもとより、気性、顔つきまでちがっているといわれる。国境いから石見へ入ったとたん、われわれ旅人にさえそれが分かった。石見への目的は雲石の国境いにある物部(もののペ)神社という古社を見るためであった。

 この神社も、いまでこそ神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられたものではなく、出雲への監視のために設けられた軍容地殻であった。その時代は、前期の天穂日命などのころよりもずっとくだり、崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、山雲監視のために物部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。 
(次号につづく)

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