小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【1】

掲載号 05年10月08日号

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作家 庚午一生

 私がラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という名前と出会ったのは戦前の旧制中学一年生の英語の教科書でした。そして、二度目は昭和35年、新聞記者として島根県松江支局在職のころです。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

 松江では、ハーンのことを「ヘルンさん」と親しみのある名前で呼んでいる。そのいわれを尋ねたところ、おじいさんもおばあさんも、そしておとうさんもおかあさんも学校の先生も「ヘルンさん」と呼んでいるからだという。

 ごく一部の市民を除いては、武士階級の士族であった女性と外人教師との国際結婚の話題にふれようとせず、あれほど数多く書き残している松江での怪談・奇談の作品にも私の前では関心を示さなかった。

 このことを新聞社の先輩である司馬さんに話したところ「出雲人は奸譎(かんけつ)で他の土地から来たものに対してひどく構えるヘキをもっているらしいじゃないか」とおっしゃる。つまり出雲人の生んだ人間風土からして、他国から来た新聞記者にそう簡単に心を開いて語ってくれる訳がないではないかということらしい。そして「私も出雲に興味をもっているので近々そちらへ取材に行くつもりだ」と、司馬さんの電話のトーンが高くなった。

司馬遼太郎
司馬遼太郎

 出雲という地方は、島根県下にある。島根県は国名で言えば西部の石見(いわみ)と東部が出雲(いずも)と隠岐(おき)から成っている。これに隣接の鳥取県をあわせて山陰地方と呼ばれている。弁当を忘れても傘(かさ)を忘れるな―と言われるほど雨天の日が多いことから山陰(やまかげ)地方と呼ばれる所以(ゆえん)だと教えられた。天候のよい山陽地方がうらやましいと思う心や出雲特有のナマリが奸譎で他国人に構え、小陰謀をこのむ人間風土を生んだと理屈づける文化人もいる。

 そういわれてみれば、記者時代の仲間や政財界文化人で、出身は島根県だが出雲でなく石見の国だと異様なまで力を入れて弁解する人たちを思い出した。

 出雲人というのは、それほどまでに同県人からきらわれているのだが、むしろこれは出雲人にとって光栄なことではあるまいか、と司馬さんは考える。それはきらわれるほどの強烈な個性が、出雲にはあるからだという。

国造さんの年賀広告

 司馬さんのいう強烈な出雲人の個性を読み取ったのは、その年も暮れ元旦号の新聞を見たときだった。私は、松江支局の前が三重県の県庁所在地、津支局だったので、元旦号は決まって伊勢神宮の記事を掲載していた。だから島根版に出雲大社の元旦記事に何の抵抗もなかった。

 しかし、島根県の地方紙の場合、全面広告に島根県知事田部(たなべ)長右衛門氏と出雲大社の宮司が「国造、千家尊祀(たかのり)」の名前で並び、上十段のスペースに正月らしく出雲大杜の写真と「謹賀新年」の活字が組まれていた。

 田部知事といえば、タタラ(現在の製鉄産業)の長(おさ)の血を引き、全国の山林王といわれる家柄で当然のことながら公選知事である。しかし精神世界の君主として今なお国造が君臨、県民がそれを認めているわけで、ああ大社の神主さんか、とぐらいにしか考えていたわたしが、いかに無知だったか思い知らされた。それほどまでに出雲大社の社家という言葉が重いのかが伺われる。このことは他府県から転勤した記者ならだれもが驚嘆する一コマである。

(つづく)

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