小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【12】

掲載号 06年01月29日号

前の記事: “尾道「市技」スタート 本因坊秀策囲碁まつり 29日300人が競技大会
次の記事: “こども110番 郵便車が出発式

作家 庚午一生

司馬遼太郎  新聞社の文化部で「子孫発言」という連載企画を担当していたとき…手持ちの材料が尽き、ついに松江支局を通じて、出雲国造家の千家尊祀氏に原稿を依頼した。しかし、いんぎんに断られた。理由は(支局員の代弁によれば)わが家は古来、大和民族の政治(?)に触れることが出来ない、というのである。私はおどろいた。新聞への寄稿が政治行為であるかどうかは別として、大国主命が天孫族に国を譲ったときの条約が、なおこんにち生きているのである。この集約が生きているかぎり、出雲には、なお形而上の世界で出雲王朝がいきている、といっていい。

 大社から、大庭神社へ行った。この地は、松江市外の丘陵地帯にあり、錯綜した丘陵の起伏のかげに、細い入江の水が入り込んでいる。古代大庭の地こそ、天穂日命が最初に進駐した出雲攻略の根拠地であった。

 大庭神社は、樹木のふかい丘のうえにある、と聞いた。その森まで、ほそく長い木の根道がつづき、あたりは常緑樹のさまざまな色彩でうずまっている。空はよく晴れていた。

 八雲立つ出雲、という。この日も出雲特有のうつくしい雲がうかんでいた。そのせいか、歩いて行く参道の風景がひどく神さびてみえた。案内してくださった郷土史家のOさんが、大庭神社の神職の秋上(あきあげ)さんは尼子十勇士のひとり秋上庵之介(いおのすけ)の子孫である、と教えてくれた。太田亮氏著の、「姓氏系大辞典」を引くと秋上家は出雲の名族であるという。

 不意に、道の横あいから痩せた五十年輩の人物があらわれて、Oさんに会釈した。腰に魚籠をくくりつけ地下足袋のようなものをはいていた。Oさんに「これから山へ茸狩りにゆくところじゃ」といった。「ちょうどよかった」とOさんが私へふりむいた。「この人が秋上さんですよ」 私は、苔をふんで、自然石の段をのぼった。上へのぼりきったとき、思わず息をのんだ。

 そこに奇怪な建物があった。これは神殿にはちがいない。しかしおそらく最も古い形式の出雲住宅なのであろう。太い宮柱を地に突きたて、四囲を厚板でかこみ、千木を天にそびえさせただけの蒼古とした建物が、山ヒダにかこまれて立っていた。この建物の何代か前の建物は、天穂日命の住居であったはずだった。

 「ここは、天穂日命の出雲経路の策源地としては理想的な地です」

 秋上さんは、足もとに見える入江を指さした。昔は入江が宮殿の下まできていて「高天ケ原」からの兵員や物資は、陸路を通ることなく、ここで揚陸されたという。

(次号へつづく)

E

トラックバック