小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【8】

掲載号 05年12月03日号

前の記事: “ポルノグラフィティ里帰りライブ 小中高児童生徒・先生もノリノリ 会場の熱気、音響でロビーゆれる
次の記事: “通院の自動扉が音もなくわが通る背後を遮断しており

作家 庚午一生

 さらにヘルンは「大社が今よりずっと大きかった時代に通常の木材は、出雲の木材で得られたのでしょうか」と千家宮司に尋ねた。


写真 近年発掘された巨木3本を束ねた出雲大社の社殿跡の御柱。

 すると今度は案内役を務めた佐々主典が答えた。

 「記録によりますと天仁(てんにん)三年七月四日、杵築に百本の大木が流れ寄り、稲佐の浜に打ち上げられました。この大木を用いまして永久三年社殿を造り替えましたが、これを寄せ木のご造営と申します。また同じ天仁三年に十五丈もの目を見張るばかりの大木が因幡(いなば)の宇倍(うペ)の杜(やしろ)近くの宮之下村に流れ着きました。村の者が切り取ろうとすると、すさまじい大蛇(おろち)が巻き付いていて、とても近寄れない。皆、大いに畏れて、字倍の社の御神に種々、祈祷をなすうちに示現(じげん)がありまして

 「出雲大社毎度御造立の時諸国の神明、交代で大行事を勤む。この度は我、大行事となる。この一本は我が伐りしもの也。急ぎこの木を以て、ご造営すべしこうした記事や他の諸記録から見まして、杵築のご造営には、常々、神々がお関わりになり、また、お助けがあるものと思われます」

 ヘルンが「神在月に八百万の神々がお集まりになるのは、大社のどのお社でしょうか」と尋ねると、

 「瑞垣(みずがき)外の東西に」と、これも佐々主典が答えた。「十九社と申す、長い建物が、二宇ございます。一棟に十九の扉が付きこれと定まるご祭神がありません。按ずるに、神々がお宿りになる御旅社(おんたびしゃ)は、この十九社でありましょう」

 「諸国より当社に参詣なさる方の数は、年にいかほどでしょう」とヘルンが尋ねると、今度は千家宮司が「おおよそ二十五万」と答えた。「ただ、それも農事の出来次第で、豊作の年には大変な数のお百姓衆がお出ましになる。しかし、どんなひどい年でも、二十万を下回ることはありません」

 それから宮司と案内役の主典は、ヘルンに沢山の珍しい話を語りはじめた。玉垣、瑞垣、荒垣の配置や名称、神苑の森、教え切れぬほどの摂社と末社、そしてご祭神。本殿の九つの柱にも名前があって、その中心の小柱は、心御柱(しんのみはしら)と敬称をもってよばれる。境内の万物に神ながらの清らかな名が付され、鳥居や橋に至るまで、名前を欠くものは一つとしてない。

 佐々主典は、また、大社が大蛇の神社と同じく東に面しているのに大国主神のご神座だけが西向きであることにも注意してくれた。

 この部屋の他の二つのご神座も東向きで、それぞれ出雲造の神祖天穂日命(あめのほひのみこと)と始祖より十七世孫は、勇智の誉れ高い名臣、野見宿禰(のみのすくね)の父である。

 垂仁天皇の御時、当麻蹴速(たいまのけはや)というものが、天下で我に及ぶ力士なしと豪語したので、天皇は野見宿禰に命じて、これと争わせた。蹴速はしたたかに投げ飛ばされて、たちまち絶命した。これが日本における相撲の始まりである。相撲取りは優れた技術と力を授かるよう、今も野見宿禰に祈願する。

E

トラックバック