通院の自動扉が音もなくわが通る背後を遮断しており

掲載号 05年12月03日号

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井上 静夫

 年齢と共に通院の回数も多くなり、病気の内容によってはその回数も異なる。診断・治療・投薬なども一週・一ヶ月の人もいる。

 この歌はみんなが何気なく通っている病院の入口のガラスの自動扉に心を向けて歌ってある。自動の扉は人を通したら自然に閉まる。当然と言えば当然である。私の通った後を一秒くらいの間を置いてするすると締まる。締まらなければ破損しているので締まって普通である。病院の外と内が完全に遮断されるのである「人が扉の前に立った、開いて人が入った、閉まった」、なんの変哲もないことだ。これをひとたび短歌に詠むと、当然なことが当然でなくなる。一般的な見方をすれば、病院の入口の扉は一日中開いたり閉まったり、いわゆる、いらっしゃい、また、どうぞというように開閉を繰り返している。

 しかしこの日の彼の感性はちょっと違っていた。みんなと同じように何気なく病院の正面の自動扉を通ったのだろう。ふっと後を振り返ってみると、何の命令も指示もしないのに音もなく扉が閉った。病院に通院とは、病気の軽重はあっても、放って置けば生命にかかわるような人々である。治療・予防・延命とさまざまな病気を持っている人が訪れている。歌の後半に「わが通る背後を遮断しており」と言ったところは、「お前はこれでもう家には帰れないぞ」と見えたのであろうか、言葉の上ではさらり言ってあるが、わが身の生死を見据えた重い一句になっている。

 深くものを思う人、めんどうくさいので考えない人、自分の無明を嘆き悲しむ人、いろいろであるが、病院の自動扉の内外を長く出入りしたいものだ。

池田友幸

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