小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【3】

掲載号 05年10月22日号

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作家 庚午一生

 昭和37年の晩春だったように記憶している。島根県浜田市の市街地を流れる浜田川堤防の柳の芽が伸び、緑の葉をそよがせていた風景が鮮明に残っている。


タタラ(製鉄所)と農民闘争を語部(カタリベ)が伝えたという神代神楽。オロチ退治の場面。

 木造三階建ての亀山旅館のすぐ下に川が流れ、目線を上げると浜田城(亀山城)跡の森が迫ってくる。窓を開け、手すりによりかかった銀髪の司馬先輩が眼鏡ごしに城跡をじっと見つめたまま「ここの殿様は、隣藩の官軍(長州・萩藩)が攻めてきたとき「自ら浜田城に火をつけて、殿様は船で日本海沖に逃げ出した。官軍に無抵抗の意志を示し一戦も交えなかった・・・。そのおかげで松平五万石の城下町は戦火をまぬがれたとも言えるがね」と、ボソボソと語りかけて来られた。

 その話が、ひとくぎりついたところで、私が松江支局在職中からこだわり続けていたスサノオノミコトとオロチ退治の現代解釈について恐る恐る切り出した。

 司馬先輩は「スサノオノミコトが鉱山業者と農民の問の利害問題を裁き、農民側を勝訴させたことを物語っている」と、中央公論でお書きになっておられた。私は、オロチが簸川の流域の地形を現わし、三年に一度は洪水による氾濫で農民を苦しめていた。そこで、農民と力を合わせ護岸工事を完成させた。そして簸川の川下に良質の砂鉄が集まるようになった。つまり、退治されたオロチの尾から天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出てきたという神詰は、護岸改修工事と砂鉄採取の因果関係で、それを結び付ければ出雲王朝がもたらした鉄器文化と降臨族が軸にした水田や農業社会を見直し神道と御霊信仰に迫ることが出来るのではないかと、問いかけた。

オロチの正体

 頭は八つ、尾が八つ―のオロチは、上、下流がいくつもの複雑な支流と交わっていた現在の一級河川「斐伊川」の古代の姿を表現しているのではなかろうか。この川は、多数の支流からなり水量も多く、ごく最近まで雨季に氾濫してたびたび水害をもたらしていた。

 背中に杉の木がはえていたという大蛇は、山陰地方特有の杉の木の山をイメージさせ、大蛇の腹が血に染まっていたというのは、谷間を流れる泥水や、水害のツメ跡を想像させる。

 そうなってくると、スサノオがオロチを退治した武勇伝に疑問がわいてくる。そうではなくて、土木建築技師の方が理屈にあっているのではなかろうか。

 古事記による神話ではスサノオはイザナギ、イザナミノミコトの子で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟とされている。凶暴で、天の岩戸の事件を起こした果て、高天原(たかまがはら)から追放され、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して「天叢雲剣を取り出し天照大神に献じて前科を許された。また新擢(しんら=古代朝鮮)に渡って船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。

 その一方では、松江市の八重垣神社の裏にある鏡ノ池で髪をといていたクシナダヒメの顔が水面にうつり、その容姿に一目ぼれしたスサノオとのロマンス。のちに八束郡八雲村にいおりをつくり、平和な暮らしをしたともいう。今の熊野神社である。そして「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」の歌をよんだ。この歌が日本の和歌の初めとされているくらいだから、スサノオノミコトは凶暴な神様ではなく、博学で心の優しい神様像になってくる。

スサノオ神社とケンカ神輿

 そうなれば、スサノオ神社のケンカ神輿やテンノウサンの祭りの在り方にも疑問がわいてくるわけだ。

 聞く人によってはたわいもない話だが、夢中になっていると「君も僕も、その時代に生きていたわけでもないし、見聞きしたわけでもないからな」と、司馬先輩は否定もしなければ肯定もされないのが常だった。そして歴史は勝者に都合のよいように作られるものだと付け加えられる。

 話を小泉八雲(ラフカデイオ・ハーン)が見た出雲のカミガミに、移してみよう。松江では八雲のことをヘルンとよんでいるので、以下ヘルンさんの呼び名で私見を述べてみたい。

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