小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【4】

掲載号 05年10月29日号

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作家 庚午一生

 出雲人が心を開いてくれるのに3年はかかる、という島根県の県庁の所在地松江市に転勤したサラリーマンは、受け入れ側にとって外人部隊である。

 そんな土地柄に、明治23年、英語教師として旧制松江中学に赴任して来たヘルン先生がよくぞいろいろのしがらみや障害を乗り越えて生活出きたものだと不思議にさえ思われる。

 もっとも、全く日本語が分からなかったから、出雲弁も風俗風習も珍しいばかりで苦にならなかったのかもしれない。それに倍してヘルンさんの妻になった小泉節子の身上は計り知れないものがある。

 本題に入る前に、山陰の松江中学教師に赴任、日本の伝統的精神や文化に興味を持ち、広く世界に紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)について手短にふれておこう。

 ギリシャのレフカス島で生まれたハーンは、父母の離婚により、アイルランドに住む大叔母に引き取られた。16歳のとき左眼を失明、大叔母の破産など不幸が続いた。

 19歳でアメリカへ渡り24歳のとき新聞記者となった。そして外国文学の翻訳、創作発表して文才を認められて、ハーパー書店の紀行記者になった。

 そして日本にやって来たのが明治23年(1890)40歳だった。東京帝国大学のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校及び師範学校の英語の教師として松江に赴任した。

 八雲立つ城下町の美しい風物、封建色の濃い風習、風土に強い愛着を覚え「知られぬ日本の面影」など多くの著書をアメリカから出版した。その間、旧松江藩士の娘小泉節子と結婚の後日本人として帰化。松江中―五高(熊本)―東大―早大で英文学を講じ、明治37年9月、54歳で逝去。

 大正8年(1919)に、松江中学時代の教え子らの呼びかけで「八雲会」が設立、松江市奥谷町の武家屋敷跡に「小泉八雲記念館」が建設され、直筆原稿、机など約千点の遺品が展示されている。

天皇家一族の出雲の千家氏

 松江赴任のさい、日本人の私でさえ、初対面で構えられ、出雲人特有の警戒の視線を浴びた。独眼の外国人にとっては、私以上にそれを感じたはずである。

 そのヘルンさんが、日本最古の神社ともいわれる杵築(きづき=出雲大社)の宮司千家尊紀(せんげたかのり)氏にお目通りがかなうことになったのだから、胸が高鳴ったのは無理からぬことである。

 千家氏の、その高貴な血筋をたどれば、日の神天照大神に至る出雲一の名族である。

 すでに述べたように神主といっても大社さんは、ただの宮司さんでなく「国造(こくそう)」であって、第八十一代の千家尊紀宮司である。(次回につづく)

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