小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【6】

掲載号 05年11月12日号

前の記事: “小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【5】
次の記事: “地域のスポーツ振興願う 因島スポーツ渡邊繁樹さん(33)

作家 庚午一生

 敗戦後、天皇は国民の象徴として親しく接するようになったが、それ以前は生身の天皇の前での平民は、ひれ伏すだけで、顔を上げるものなら目がつぶれるとまであがめたてまつった時代を経験した人は少なくない。現代の若い人は失笑にふすだろうが、本当の話だから仕方がない。

 話を本題にもどそう―。

 八雲(ヘルン)は、日本最古の神社を天孫降臨の高千穂ではなく、杵築(きづき=出雲大社)と決めている。その理由について小泉八雲著・平川祐弘編「神々の国の首都」で「神国とは日本を尊んでいうときの別称である」という書き出しに注目すると、当時のヘルンさんの日本史観が理解できる。

 更に続く文を紹介すると

 この神々の住む尊い国の中でもひときわ尊いとされるのが、出雲の国である。

 この出雲へと、青い空なる高天原(たかまがはら)より、国生みの神「いざなぎ・いざなみのみこと」が下り、しばらくお足をお留めになった。この神こそ、地の神と、青人草の遠つ神祖(かむおや)である。この、「いざなみのみこと」が神去り給い葬られたのも、この出雲の国境、「またこの国から「いざなぎのみこと」は亡き妻を慕い、連れ戻そうと死者の住む根の国へと旅立たれた。この黄泉(よみ)の国への旅と、そこでの出来ごとは、かの有名な「古事記」に記されているが、冥界についての世界中の伝説を集めても、この物語ほど不思議な話はまずない―よく知られているアッシリアのイシュタルの冥界下りさえ、この物語の前では色褪(あ)せてみえる。冥界と言えば、よみのくに、あの世のことで、ヘルンさんは、霊界や冥界に人一倍に興味をそそられたようだ。それは次の一文でもよく分かる。

 そして、続く。

 杵築を訪ねる―それは古事記で出雲の神話を読んで以来、長いあいだ私の最も切なる願いだった。ヨーロッパ人でここを訪ねるものは極めて稀で、昇殿を許されたものはいまだ一人もいないと聞き私の胸は、いよいよ高鳴った―。

 以下は松江から杵築への紀行文だから中略するが、八百万(やおよろず)の神々の中の貧乏神の話で、ヘルンが「貧は福の影だから貧乏神は福の神の影法師なんだ。福の神の行くところ必ず貧乏神が付きまとった」という新説に、案内人はいっこうに感心してくれなかったのを残念がっている。

 杵築を訪れたヘルンは、日の神天照大神の末裔(まつえい)である宮司、千家尊紀に謁見(えっけん)を許されたのだから、緊張と感激のきわみであったはずだ。ところが、新聞記者であり、紀行文を数多く取材した経験者だから拝殿の礼儀作法から置物、間取りにいたるまで、ことこまやかに次のように観察して書き記している。

 神官は私を高い広大な部屋へと導いて行く。階段を上り詰めたところが、そのまま広い縁になり、その縁の向い、部屋いっぱいの幅で入り口が開いている。神官の後を追いながら、かろうじて周りの様子に目をやった。なかには、大きなご神座が三つあり、そのために部屋の両側に壁をうがつような形で小部屋が設けられている。そのうちの二座は天井から畳に垂れた白い幕で隠されている。幕には直径五インチほどの黒丸に金色の花の紋が、縦縞(たてじま)のようにあしらわれている。しかし二番目の奥手にある神座からは金欄(きんらん)の帳(とばり)が引き上げられていて、背後にこそ主神たる大国主が祀られているのである。

E

トラックバック