小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【5】

掲載号 05年11月05日号

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作家 庚午一生

 さきに、出雲大社の神主さんは、ただの宮司さんでなく国造(くにのみやつこ・こくぞう)であって、それも天孫降臨族の天照大神の一族であることを述べた。

 そこで、国造とは、いったいどういう職務だったのか―と説明を求められるといささかやっかいだ。司馬遼太郎は、古代地方長官で大和王朝と対抗する出雲王朝の帝王であった大国主をまつる出雲国造が、かつての敵であった大和政権から国造の称号をもらったものか、どうか明らかでない。この話は、変にややこしい、と書き残している。そして、このミコト(大国主)が、西暦何年に誕生し何年に死没したかも分からないところに、日本史の神韻ヒョウビョウたるものがある、と結論を出さないでいる。

 そして、小泉八雲の、「神々の国の首都」を名訳した平川祐介編の[注]によると、職務にある国造は、常に一人だが、国造家は遥か以前より千家、北島の二流に分かれ、たがいに神祖より職責を求めて対抗。政府は常に本家である千家を優遇して来たが、北島家の成長も、普通、国造次席なみの扱いを受けている。国造は杵築にあっては、常に天皇(すめらみこと)の身代わりとして神に奉仕するが、そうした宗教的役割は、御杖代(みつえしろ)と呼ばれ当代の宮司も、この称号をもっていると注釈をつけている。

 そして、小泉八雲は、いまでは官制上の名称も国造でなく宮司にすぎないが、神様あるいは神様のように尊いお方であって、今なお遠い昔代から受け継がれてきた国造の名をもって呼ばれている。かつて国造がどれほど厚く崇敬されていたかは、出雲の鄙人(ひなびと・里人)のあいだに長く暮らした者でなければ到底わからない、と説明。

 さらにこう付け加えている。国造におとらぬ崇拝を受けているのは、民衆と太陽の仲立ちをつとめる日の御子「天子様」だけであるという見解を述べている。

 日本人よりも日本をよく知り研究している外国人のラフカディオ・ハーンことヘルンさんは、この時代に日本人が言葉や文章に表せない筆跡を残し、思わず微笑みがわいてくる。

 天子様、御門(みかど)への崇敬心は、生身の人間に対していうよりは、一つの尊い夢に対して、現実というようりは名称に対して湧き起こるものだ、と日本人の精神文化を分析する。

 なぜなら天子様は現在(あき)つ神として、決して姿をお見せにならない。民衆は、その竜顔を拝したら命をなくすると信じている。

 目にも見えず知ることもできない―これが御門の神話にどれほど絶大な威力を貸し与えていることか、と。

(つづく)

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