小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【11】

掲載号 06年01月21日号

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作家 庚午一生

司馬遼太郎 司馬さんの紀行文「生きている出雲王朝」は、さらにこう続いている。

 …自動車が宍道湖畔に入ったときは、すでに夜になっていた。いつのまにか、雨が前照燈の光芒を濡らしていたが、すぐやんだ。やむと、すぐ夜空が晴れた。

 松江地方の気象の特徴であるという。湖上の闇は深かったが、それでもときどき闇を割って、いさり火のほのかな赤さが明滅した。私の旅が、すでに古代の世界に入りつつあることを、そのいさり火は、痛いまでに私に教えようとしていた。その夜の宿は、大社のいなばやにとった。

 翌朝、出雲大社にもうでた。なるほど「雲にそびえる千木(ちぎ)」であった。

 日本書紀の「千尋のタク縄を以て結ひて百八十紐(ももあまりやそむすび)にせむ、その宮を造る制(のり)は、柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚くせむ」とある。大社の社殿では、上古においては神殿の高さは三十二丈あったという。また中古は十六丈、今は八丈という。上古の三十二丈は荒唐すぎて信じがたいが、中古の十六丈については、明冶四十年代に、伊東忠太博士と山本信也博士が論争したことがある。山本氏は十六丈説を肯定した。肯定の根拠になったのは、天禄元年(九七〇年)に源為憲が著した「口遊(くちずさみ)」という書だった。この本の中に、当時最大の建物を三つあげ「雲太、和二、京三」としている。出雲(出雲大社)は太郎であるから最大であり、大和二郎(大仏殿)、京三郎(大極殿)という順になる。出雲大社の建物は平安初期でもなお大仏殿よりも大きかったのである。

 古代国家によって、これはどの大造営は、国力を傾けるほどのエネルギーを要したであろう。しかし、大和や山城の政権は、それをしなければならなかった。

 その必要が、出雲にはあった。十六丈のピラミッド的大神殿を建てねば、出雲の民心は安まらなかったのである。古代出雲王朝の亡霊が、なお中古に至るまで中央政権に対して無言の圧力を加えていたと私は見る。

 私は、いま古代出雲王朝といった。その前に、天穂日命の裔の勢力を第二次出雲王朝ともいった。しかし第一次も第二次も、血統こそちがえ、かれらの対中央意識においては少しも変わらなかったようである。

 天穂日命の子孫は、天穂日命自身がすでにそうであったように、すぐ出雲化した。かれら新しい支配者は土着出雲人に同化し、天ツ神であることを忘れ、出雲民族の恨みを相続し、まるで大国主命の裔であるがごとき行動をした。例を挙げると「崇神紀」六十年七月に、天皇、軍勢を派して出雲大杜の神宝を大和に持ち帰らせている。神宝とは、天皇家における三種ノ神器のようなものであろう。出雲民族を骨抜きにする行政措置の一つだろうが、このとき、たまたま「第二次出雲王朝」の王であった振根(ふりね)という男が、筑紫へ旅行していて、不在だった。帰国してこの事実を知って、激怒し、留守居の弟たちを責めた。ついに弟の飯入根を殺してしまったため近親の者が恐れ、大和へ訴えでた。大和では吉備建彦(きびつひこ)を司令官に任命して軍勢を差し向けて合戦のうえ、振根を誅している。大和朝廷に刃向かう振根の姿には、大和との民族意識はもはやなく、異民族の王としてのすさまじい抵抗意識しか、見いだせない。第一次も第二次も出雲王朝の対大和意識には、ほとんど変化がなかったことは、この一事でもわかる。

 このことについて、私の脳裏にべつな記憶がよみがえらざるを得ない。かつて私は、新聞社の文化部にいた。ある年「子孫発言」という連載企画を担当した。徳川義親氏に家康のことを書いてもらったり、有馬頼義氏に先祖の殿様のことを書いてもらったりする企画だった。

(次号につづく)

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