小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【10】

掲載号 05年12月17日号

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作家 庚午一生

司馬遼太郎 さて、出雲王朝のヌシである大国主命の降伏後の出雲はどうなったか―。

 出雲へは「高天ケ原」から進駐軍司令官として、天穂日命(あめのほひのみこと)が派遺された。駐屯した軍営は、いまの松江市外大庭村の大庭神社の地である。ところが、この天孫人はダグラス・マッカーサーのような頑固な性格の男ではなかったらしく、神代妃下巻に「此の神、大己貴神に倭媚(ねいび)して、年に及ぶまで、尚ほ報聞せず」とある。

 出雲人にまるめこまれたのであろう。戦さにはよわくとも、寝わざの外交手腕にたけていたらしい大国主命の風ぼうがわれわれの眼に浮かぶようである。ゴウをにやした高天ヶ原政府はさらに天穂日命の子である武三熊之大人(たけみくまのうし)という人物を派遣した。

 しかし、この司令官もまた「父に順ひ、遂に報聞」しなかった。

 当然のことながら、高天ヶ原では大国主命の生存するかぎり、出雲の占領統治はうまくゆかない、とみた。

 ついに、大国主命に対し「汝、応に天日隅宮(あまのひすみのみや)に住むべし」との断罪を下した。

 この天日隅宮が、出雲大社である。恐らく、大国主命は殺されたという意味であろう。かれが現人神(あらひとがみ)でいる限り、現地人の尊崇を集めて占領当地がうまくいくまい。とあって、事実上の「神」にされてしまったのである。この点は、太平洋戦争終結当時の事情とやや似てはいるが、二十世紀のアメリカは、天孫民族の帝王に対しでより温情的であった。しかし神代の天孫民族は、前代の支配王朝に対して、古代的な酷烈さをもってのぞんだ。

 大国主命は、ついに「神」として出雲大社に鎮まりかえった。もはや、現人神であった当時のように、出雲の旧領民に対していかなる政治力も発揮しえないであろう。「祭神」になってしまった大国主命に対して、高天ヶ原政権は、進駐軍司令官天穂日命とその子孫に永久に宮司になること命じた。

 天孫族である天穂日命は出雲大社の斎主になることによって出雲民族を慰撫し祭神大国主命の代行者という立場で、出雲における占領政治を正当化した。畸形な祭政一致体制がうまれたわけである。その天穂日命の子孫が、出雲国造となり同時に連綿として出雲大社の斎主となった。いわば、旧出雲王朝の側から言えば簒奪者(さんだつしゃ)の家系が数千年の出雲大社の宮司家であり国造家である千家氏、北島氏の家系がそれである。

 天皇家と相ならんで、日本最古の家系でありまた天皇家と同様、史上のいかなる戦乱時代にも、この家系はゆるがず、いかなる草莽(そうもう)の奸賊といえども、その家系を畏れかしこんで犯そうとはしなかった。

 その理由は、明らかである。この二つの家系が、説話上、日本人の血を両分する天孫系と出雲系のそれぞれ一方を代表する神聖家系であることを、歴代の不逞の風雲児たちも知っていたのであろう。血統を信仰する日本的シャーマニズムに温存され、「第二次出雲王朝」は、二十一世紀のこんにちまで生存を続けて来た。この事実は、卑小な政治的議論の場に引き移さるべきものではなく、ただそれだけの保存の事実だけを抽出することによって、十分世界文明史に特記されてもよい。いわば芸術的価値をさえもっているではないか。

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