小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【16】

掲載号 06年02月25日号

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天孫族親衛隊司令官駐屯所 石州一の宮「物部神社」

 司馬さんの出雲のカミガミの旅は、これで終わっているが、石州(せきしゅう)「一の宮・物部神社」について補足することにしよう。

(フリーライター・村上幹郎編・故司馬遼太郎追悼紀行)

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 平成8年8月、盆明けの週末のこと。経済評論家で古典塾を主宰している西宮市在住の泉和幸氏と島根県大田市に鎮座する石見一の宮・物部神社(いわみいちのみや・もののべじんじゃ)を訪ねた。

 作家・故司馬遼太郎氏が書き遺した「生きている出雲王朝」によれば「今でこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられたものではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった」という説である。

 つまり、日向(ヒムカ・ひゅうが=宮崎県)の高千穂の峯に降り立った天孫族が東征。大和(奈良)地方を征服した後、出雲に軍勢を派遺したが、大国主命(おおくにぬしのみこと)は戦いを避け、天孫族に国を譲った。

 そして、天孫族は現在の松江市郊外にある大庭神社へ進駐して大和朝廷に刃向かうことがあれば、いつでも出雲攻略が出来る拠点を置いた。

 一方では、西方の三瓶山麓の大田市郊外に物部軍勢を派遺して、駐屯させた。

 ここの駐屯部隊は、物部神社の社伝によると、出雲の降伏後、封印された出雲大社の兵器庫のカギを管理していたという。そのため、出雲から、そのカギを盗み反乱を企てる者も少なくなかった。そこで物部兵団は石見(いわみ)人に対し、反出雲感情をあおるような洗脳教育をしたという。

 今日の島根県下における出雲地方と石見地方の言語まで異なる対立感情は、そういう所からも源流を発しているとすれば、ここにも古代出雲王朝が生きているわけで、歴史の不思議さに魅せられる。

 泉氏も、古代史に魅せられている一人である。JR新尾道駅で落ち合い、国道号線沿いに車をはしらせた。急な上り下りの山坂を三つ通り抜けると広島県・上下分水嶺という標示板が目に入った。ここからは車は坂道を上っているのに、水の流れは谷間を日本海へ下っているわけだ。「川の流れが中国山地の山裾を縫うようにして山陰地方に向かっているのだ」と泉氏に説明すると「日本海へ」と不思議そうに山間の谷川を凝視した。

(つづく)

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