小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【2】

掲載号 05年10月15日号

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作家 庚午一生

 出雲の国造はクニノミヤツコとよみ、音読してコクソウと呼ぶのだという。天皇のことを古い倭語でスメラミコトと呼び、音読してテンノウと呼ぶようなものだ。国造という古代地方長官というべき制度は、古事記によれば、日向(ひゅうが=宮崎地方)から来た「神武天皇」が、今の奈良県を征したとき、出雲民族だろうとされる大和の土豪津根(つるぎね)葛城(かつらぎ)の国造としたのが初めだとする。

 つまり、この地方には天孫降臨族と言われる神武天皇より先に出雲民族の国があったわけである。奈良の王になった神武天皇の子孫は何代も重ねて領土を広げてゆき、新たな領土には現地人を採用して、そこの土豪を国造にして補充したとされる。

 それでは、大和王朝と対抗する出雲王朝をまつる出雲国造が、敵方の望の称号をいつもらったかは明らかでない。この話は、まことにややこしいが、出雲国造の家系に立ち入らないと話が進まない。

 この家系が、いつ成立したかは、神代時代に逆のばらなければならない。「高天ケ原(たかまがはら)」にいた天照大神が、皇孫ニニギノミコトを葦原中国(あしはらのなかつくに)に降臨せしめんとし、タケミカヅチとフツヌシの神の二神を下界に下してナカツクニの帝王だった大国主命に交渉させた。そのころの日本を想像すると、大国主命を主領とする出雲民族の天下だったのだろう。

 それでは、出雲民族を分類すれば、何民族であったのであろうかと言えば、司馬さんによると、今の黒竜江あたりを占拠していたツングース族で、ある者ほ樺太(からふと=サハリン)へ、さらに蝦夷(えぞ=北海道)を発見、更に日本海を南下して出雲地方まで進んできた。そして、彼らは鉄器の文明を運んできた。

八岐大蛇とオロチョン

 新聞記者時代の上司で出雲の語部(かたりべ)を自称するT部長や出雲の郷土史家たちは、八岐大蛇(やまたのおろち)伝説のオロチは、オロチョンであるという説をたてている。このオロチョンは、満州の興安山脈の山中で狩猟生活を営んでいた少数民族だが、勇敢な騎馬民族でありツングース人種である。人類学的な裏付けはないにしても、オロチとオロチョンの語呂の類似からすれば、おもしろい説である。

 蒙古語もツングース語も、同じウラル・アルタイ語に属している。蒙古語というのは、東北人が鹿児島弁を習得するほどの努力でマスターできるという。話し言葉の構造が日本語と変わりがなく単語さえ覚えれば用が足りるわけである。

 中国山脈は、いまも昔も砂鉄を多く含んでいる。出雲王朝が、有史以前にトヨアシハラのナカツクニを支配できたのは、鉄器の製造技術があったからだと思われる。その鉄器文明はオロチョンが持ち込んだという。つまりオロチョンの鉱業家が簸川(ひのかわ)の上流で砂鉄を採取して炉で溶かしていた。タタラという古代の製鉄所である。

 当然のことながら、川下の田畑には砂鉄を採取するときに出るドロ水が流れ込み、農民を困らせた。農民は、足名椎(あしなづち)手名椎(てなづち)夫婦に象徴され、オロチ退治の神楽に登場する人物である。

 洒をつくって、オロチに飲ませ、酔っ払ったところへ出雲の王、須佐之男尊(スサノオノミコト)が登場してオロチと格闘して首を取るクライマックスのシーンとなる。つまり、鉱山業者と農民の間の利害問題を裁き、農民側を勝訴させたことを物語っている、という。

 物語の解釈は、いかようにもできるわけで「頭が八つ、尾が八つ。背中に杉の大木が立ち、七つの山谷を越える大蛇が三年に一度、村の娘をさらってゆく」という戦前の歴史教科書にこだわってみたい。

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