小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【7】

掲載号 05年11月19日号

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作家 庚午一生

 松江中学の教頭だった西田先生の紹介で昇殿をはたした西洋人ヘルンは、境内に入ることも稀なことを知っていた。いわんや日の神天照大御神の末商(まつえい)であり現身(うつしみ=現実に生きている姿)にあらざるお人として諸人から崇拝されている国造、千家専紀(せんげたかのり)宮司のお取り次ぎによる正式参拝である。へルンから見た千家宮司は、威厳を漂わせた美しいヒゲの人物で不思議な形の冠と白装束に身を包み、古代ギリシャの秘儀を司る神官のように端然と畳の上に坐している精悍(せいかん)な人物だった。そして、ゆったりと腰もとにひろがる雪のような白泡にみごとな陰影を波打たせた姿は、まさしく日本の古画から抜け出たようで古(いにしえ)の名高い王侯貴族はかくもあったかと思わせるほどの英姿であったと書いている。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

 外国人教師に対してのこの破格の厚遇に、ヘルンは通訳を通じて、出来る限りの言葉をもって千家宮司にお礼を甲し上げ、おもむろに本題に入った。

「この杵築の大社は、伊勢の大神宮よりも古いのでしょうか」

「遥かに古うございます」と、宮司は答えられる。

「そもそも、いつ建てられたと申せぬほど古い。遠い神代の昔、天照大御神のご命令により建てられたのが当社のはじまりで広壮並ぶものなき大宮殿であった。本殿の高さは三十二丈、柱は高く太く、板は広く厚くいかなる森の大木よりも大いなる材を用い、千尋のタク縄をもって固くむすび結(ゆ)ったと申します」

「人皇(じんこう=神代と神武天皇以後を区別していう語)の世に入り垂仁天皇の時代に、勅命による第一回の造宮があった。これを鉄輪のご造宮といい、そのいわれは、巨木を鉄輪で束ねて御柱となしたことによる。この社殿も立派なものだったが神々の御世(みよ)より格段に落ちて高さ十六丈であったと申します」

「三度目のご造宮は、斉明天皇の御世で、高さ八丈。この時より社殿の造作に大きな変わりはなく、ご造宮の制はごく細かい点に至るまで現在の社殿に伝わっております」

「これまで、二十八回の社殿ご造替(ぞうたい)があり六十一年ごとに建て替えるのが習わしとなっている。しかし、長い戦乱の世には百年以上も修理さえできなかったこともあり、大永(たいえい)四年に尼子経久(あまこつねひさ)が出雲の国を横領(おうりょう)して、畏(おそ)れ多くも当社を仏僧の手に委ね、境内に堂塔など築いたが、尼子一族が滅びると毛利元就(もうりもとなり)が山陰に雄飛し社殿を清め、廃(す)たれていた儀式・祭礼なども旧に復しました」

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