小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【20】

掲載号 06年03月25日号

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 そこで、私なりに「大蛇(おろち)伝説ですね」と問いかけた。「佐比売山(さひめやま)が噴火して流れ出る熔岩が、村人を襲った。それをヤマタノオロチになぞらえて語部(かたりぺ)が伝え、やがて神代神楽にアレンジされて、今もその伝説が受け継がれてきた」

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浮布の池から望む三瓶山

 実は、出雲の斐川の氾濫やタタラの製鉄族と農民の争いでなく、三瓶山の火山噴火の言い伝えがヤマタノオロチの伝説で「こちらが本物」だと力説する。

 「この近くにオロチ谷という地名が残っており、その下流には砂鉄が堆積。子供の頃、降雨のあと、川に入ると体に砂鉄がくっついて真っ黒になっていましたよ。斐川上流域にはオロチとつく地名が一つもないでしょう」と、たたみかける。

 物部氏がこの地にやってきたのは、三瓶山の噴火が終わったあとからであろうとも言う。もともと物部氏は神武天皇がご東遷される以前、大和(やまと)当時、秀真国(ほつまのくに)を平定統治していた大王(おおきみ)饒速日命(にぎはやひのみこと)の直系の氏族であって、天皇家の姻戚でもあった。そして、古代大和朝廷の政治祭祀の両権を掌握していた大豪族で、その朝廷祭祀の始まりは初代神武天皇が橿原宮で御即位式(後の大嘗祭)をしたときからのことである。

 古儀神道がそのまま受け継がれている石見国一の宮「物部神社」の特殊神事で困ることが起きて来た。その中の一つが、9月1日の「田面祭(たのもさい)」―八朔祭とも言われ、柿・栗・桃など九種類と、泥鱒(どじょう)を供え、収穫を祈願する。ところが最近になってドジョウがいなくなった。だから一週間ほど前からドジョウすくいに村中の田んぼを探し歩く始末。やがてはいなくなる日も近いので思案しているのですよ―と中田宮司は苦笑。境内か農家に頼んで養殖しなければ二千年の伝統が消える訳である。

 12月9日の忌籠(いみこも)神事というのがある。心身を清浄に保ち物部神社の末社「一瓶神社(いっぺいしゃ)」にこもり、室町時代のころの古備前の二石入りの大カメを使って神饌用の御神酒(おみき)を造るのだが、宮司をはじめ神職が10月晦日(みそか)から忌寵り禊(みそぎ)をする。

 10月末と言えば、神域の谷間の冷え込みは厳しくなる。毎日みそぎをして一瓶社にこもって大カメの洒米をキネでつき、手作りの御神酒を約1カ月かけて造るわけだが、いつまで続くのか後継者に不安がある。

 明治憲法で天領地が制限され、昭和20年の敗戦、農地改革で神社所有農地は取りあげられた。戦後、山林の収入で神社は細々と経営されていたが近年は円高で輸入材木の影響が出て国産材木が下落、松クイ虫に追い打ちをかけられた。宮内庁の援助だけではとてもやっていけないと一抹の不安が宮司の口から漏れる。

一瓶社

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