小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【17】

掲載号 06年03月04日号

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 中国山地の小都市、三次盆地郊外から国道54号と別れ、江ノ川沿いにワニの街道を下った。石見銀山街道の一つでもあり、その昔は島根県側からの舟の交通路であった。集落は昔のままだが、近代交通網の変化と共に過疎化の波は押し寄せている。だが、そこに住む人は過疎の中で様々なイベントに挑戦している。

 杉木立を切り開いた曲がりくねった狭い道幅。車がやっと一台通り抜けるところもあれば、町や村の中心地は二車線分離帯まである近代的な道路が広がる。往来する車は見かけない静かな谷間の国道315号線。ときたま狭い道で出会う護岸工事の大型トラックに肝を冷やす。

 渓谷の自然は、すばらしい。中国地方の最大の江ノ川(ごうのかわ)―広島県北部の三次盆地で三支流を合わせ中国山地を西へ横断、島根県江津市に注ぐ長さ194キロメートルの大河。この上流地域は古来広島方面との交流が盛んで、弥生時代の大和系文化を代表する銅鐸が出土し、古墳の型からも山陽との共通性が深かったことが伺える。さらに中世浄土真宗の布教も安芸・備後を経て島根県境の赤名から江ノ川流域の粕淵(かすぶち)浄土寺に入りこの地域は真言宗一色に塗り潰された。

 こうした背景もあって、商品流通の発達した近世においては、江ノ川を舟が行き交い、三次から商品を送り込んでいたことから、現在でも広島商業圏内にあり広島弁が使われている。

 ところで、なぜ川の流れが中国山地を逆上り、日本海へ流れるのか説明しておこう。

 この現象は「先行性河谷」と呼ばれ、山脈のできる以前に、平坦化された地上を流れる川が出来上がっていた。その後で、川の中流部が隆起したが低いところを探して谷間をつくり、川の流れる方向は変わらなかった。つまり、山脈の隆起の速度より、川の侵食力が強く速いときには旧流路を保って山脈を横切る川となるわけだ。

 この地点を横谷と称し、峡谷を形成、四国山脈を横切る大歩危(おおぼけ)小歩危、赤城山脈を横切る天竜峡などもこの例である。

 さらには、江ノ川上流の中国山地にある断魚渓や千丈渓などの峡谷美を創り出し、遠くはヒマラヤ山脈もこの例にもれない。

 車は布野、作木、大和の三村を川下り、カヌーの里邑智郡邑智町で国道315号線に別れを告げ、山坂道をたどりながら、三瓶高原を抜け、山麓にある大田市川合町の石見国(いわみのくに)一の宮「物部神社」にたどりついた。

 さっそく、正式参拝をして中田武範宮司から同社の由緒・社伝についてお話しを伺った。御祭神は、宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)で物部(もののべ)氏の祖神(おやがみ)であることは言うまでもない。その父は饒速日命(にぎはやひのみこと)である。

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