小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【21】

掲載号 06年04月01日号

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 大きな社殿。後小松天皇をはじめ、歴代天皇の御辰翰(ごしんかん)御物(ぎょぶつ)重要文化財の太刀(たち)、県指定の太刀、武具工芸品、書画、古文書など450余点を蔵し、これらを維持するだけでも気苦労は大きい。

 2日間の滞在で、神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされたので天皇より授けられた神剣「?霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」、「十種神宝(とくさのかむだから)」を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿(ちんこんほうじゅ)を祈願したことが始まりと伝えられる「鎮魂祭(みたましずめのまつり)」など社伝にまつわる伝説を聞き、ここにも出雲王朝と大和王朝が今も生き続けていることを知らされた。

氏神様と檀那寺の不思議な関係

 明治時代に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と昭和の戦後に見聞した司馬遼太郎の出雲の神々について述べて来た。この2人の目に映ったのは、今も出雲王朝が生きている―と感じ取った共通の思いであったと思われる。

 それでは、なぜ、この2人が出雲に興味をさそわれたかを終章にあたりふれておこう―。

 「あなたの信じる宗教は何か、仏教か神道かと尋ねると、たいていの日本人は困った顔をする」と驚きをこめて明治の日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは「日本事物誌」に記している。チェンバレンに限らず、明治の開国とともに来日した西洋の宣教師や商人、外交官の多くが同じ疑問に当惑した。一言語と宗教がその国の文化の中核をなすというのが彼らの常識だったからである。チェンバレンもさんざん思い悩んだあげく「氏神様(うじがみさま)」と檀那寺(だんなでら)を厳格に区別しない」日本人は、無宗教の国民なのだろうと結論づけた。

 これでは、無言語の国民というのと同じで、問題の解決になっていない。

 横浜、神戸など外人居留地の人たちを悩ませていたもう1つの問題は「神道がどんな宗教なのか」さっぱり分からない事だった。世紀に主だった経典が次々と翻訳されていた仏教と違って、神道には翻訳も解説も皆無だった。昨今でもかなり大きな書店にも神道書のコーナーは見当たらない。しかも、この未知の信仰が明治維新政府成立の原動、文教政策の中心理念になった。いわば新興日本の国教であると喧伝(けんでん=世間に言いはやし伝える)されていた。

 日本アジア協会が明治五年、横浜の英米人を中心に設立された当時最大の日本研究組織での話である。2年後に初めて本格的な神道を発表したのが幕未明治に功績を残した英国外交官で日本語書記官、アーネスト・サトウ。発表そのものは「伊勢の神道の社(やしろ)」という地味な考証だったが議場が一躍、神道シンポジウムと化した。

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大国主命が祭神の出雲大社本殿

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出雲民族に目を光らせた物部神社

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