小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【9】

掲載号 05年12月10日号

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作家 庚午一生

司馬遼太郎 ここで司馬遼太郎先輩に再び登場していただこう。司馬さんが中央公論昭和36年3月号で「生きている出雲王朝」という紀行文を発表された。

 出雲地方にとって都合が悪かったのか、出雲大社さんなのか、この号に限って出雲地方の書店は発売を禁止。さらには司馬さんが在職していた産経新聞不買運動まで起こった。

 そのことはさておいて、ヘルンさんが出雲大社の神殿にまで案内された様子と司馬さんが見た大社さんについて、著書のなかの一文を借用して対比させていただこう―。

 「高天ヶ原」から天孫族の使者が押しかけて国を譲れと出雲の帝王「大己貴神(おおあなむちのかみ)=大国主命」に迫り無条件降伏させた。

 この国譲りののち、天孫民族と出雲王朝との協定は出雲王は永久に天孫民族の政治にタッチしないということであった。哀れにも、出雲の王族は身柄を大和に移され、三輪山のそばに住んだ。三輪氏の祖がそれである。この奈良県という土地は、もともと、出雲王朝の植民地のようなものであったのだろう。神武天皇が侵入するまでは出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ない。

 滝川政次郎博士によればこの三輪山を中心の出雲の政庁があったという。神武天皇の好敵手であった長髓彦(ながすねひこ)も出雲民族の土酋(どしゅう)の一人であった。

 私(司馬遼太郎)は少年時代、母親の実家である、奈良県北葛城郡当麻村(たいまそん)竹ノ内という山麓の在所ですごした。この村には長髓彦の墓と言い伝えられる古墳がある。

 むろん長髓彦の年代(?)は、古墳時代以前のものであるから妄説にすぎまいが大和の住民に、自分たちの先祖である出雲民族をなつかしむ潜在感情があるとすれば、情において私はこの伝説を尊びたい。

 現に、わが奈良県人は同じ県内にある神武天皇の橿原(かしはら)神宮よりも、三輪山の大神(おおみや)神社を尊崇していて、毎月「ツイタチ参り」というものをする。かれらは「オオミワはんは、ジンムさんより先きや」という。かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか。

 ついでながら、三輪山は山全体を神体とする神社神道における最古の形式を遺している。こういうものを甘南備山(かんなびやま)という。出雲にも甘南備山が多い。「出雲国造神賀詞」にはカンナビの語がやたらと出る。ツングースも蒙古人も山を崇ぶが、そこまで飛躍せずとも、出雲民族の信仰の特徴であると言えるだろう。

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