小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【19】

掲載号 06年03月18日号

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 同じ島根県でありながら石見(いわみ)と出雲(いずも)は方言がまったく違い、気性、顔付きまで異なっている。私たち旅人にさえそれが分かるので、「出雲王朝は今も生きているのですね」と、中田武範宮司におそるおそる尋ねてみた。

 「出雲はズーズー、石見はガア、ガア…」と、笑って質問をそらされた。

 私たちの狙いは、今でこそ、鎮魂(ちんこん=魂を鎮める)の宮、石見一の宮「物部神社」という名が付いているが、上古は出雲への監視を目的とした軍事施設であったはずだ。

 ここに駐屯した兵団は物部(もののべ)の兵(つわもの)が中心で、一旦緩急あれば、地元の石見人も徴集して出雲の制圧を行ったであろう。そのためには、ここの駐屯部隊は平素から出雲への対立感情をそそり、輩下においておく必要があったろう。

 こんにちの島根県における出雲・石見の対立感情はそういうところからも源流を発しているのかも知れない、と故司馬遼太郎氏が記している一節にこだわっているから、是非とも宮司の口から聞き出したかった。

 神社は村社であり、建物も完全に出雲様式とは異なっている。

 故司馬遼太郎氏も「この神社から、いつのほどか物部のつわものどもの姿が消え、出雲の兵器庫のカギの保管も儀式化し、神社が祠官のみの奉斎する単なる宗教施設になったとき、ようやく第二次出雲王朝は大和・山城の政権に対する実力を失い、神代の国譲りの神話は完全に終結した。そのとき、出雲の古代は終わった。その時期が日本史の中のいつであったかは、記録されたものの中からは、伺い知るすべもない」と結んでいる。

 この話を中田宮司に差し向けた。

 「御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が奈良・大和(やまと)から来られたことには間違いないと思う」

 ひと呼吸して中田宮司が一瓶社(いっぺいしゃ)の伝説を語り始めた。

 その一瓶社というのは物部神社本殿のすぐ横にある小さな末社(まっしゃ)である。御祭神がこの地方を平定され、三つの瓶(かめ)を三カ所に据え、安住の地とされた。一番目の瓶は物部神社の一瓶社に納め、二番目のカメは浮布地の邇幣姫神社(にべひめじんじゃ)に、三番目は三瓶山(さんべさん)麓の三瓶大明神に祀られ、このことから三つの瓶(かめ)の山「三瓶山」の名が付いたと言われている。

 現在、この三瓶山は親三瓶、子三瓶、孫三瓶の三つの山が、隣り合った雄大な容姿を整えているが、古名は「佐比売山(さひめやま)」といい、出雲風土記の国引き神話に出てくる。

 では、もともと一つの山であった佐比売山が、なぜ三つの山になったのかと言えば、火山の噴火により出来たものだとおっしゃる。

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