小泉八雲と司馬遼太郎が見た「出雲のカミガミ」【14】

掲載号 06年02月11日号

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作家 庚午一生

司馬遼太郎  物部神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫のカギをここであずかっていたという。出雲からそのカギを盗みに来たものがあり、物議をかもしたこともあったという。

 この神社に駐屯していた兵団は物部の兵が中心ではあったが、おそらく一旦緩急のあったばあいは、土地の石見人をも徴集したであろう。また、徴集できる素地を平素からつくっておくために、ここの駐屯軍司令官は石見人に対し、ことごとに反出雲感情をあおるような教育をしたであろう。

 こんにちの島根県下における出雲・石見の対立感情はあるいはそういう所からも源流を発しているのかもしれない。神社は、村社然としていた。建物も、完全に出雲様式とは別のものであった。この神社から、いつのほどか物部のつわものどもの姿が消え、出雲の兵器庫のカギの保管も儀式化し神社が祠宮のみ奉斎する単なる宗教施設になったときようやく第二次出雲王朝は大和・山城の政権に対する実力をうしない、神代の国譲りの神話は完全に終結した。そのとき出雲の古代は終わった。その時期が日本史のなかのいつであったかは、記録されたもののなかからは、うかがい知るすべもない。

 数日の滞在で、私は大阪へ帰った。まっさきにW氏に会おうとした。が、W氏は仕事が多忙で他県へ出張していた。帰阪してからひと月ほどして、W氏に会った。出雲へ行ったことを話すと、なぜ私に声をかけてくれなかった、一緒にゆけばもっと「事情」がよくわかったのに、とひどく残念そうにいった。事情?なんの事情です、と聞くと、事情だ、出雲には秘密の事情がある、とだけいって、急に表情を変え、例の憑依(のりうつ)ったような暗い表情をした。このとき、私は、あのカタリベの一件をくわしく聞くべきだと思った。

 やがて、W氏は重い口を開いた。W家は国造家である千家の主宰す出雲大社の社家であることは、さきにのべた。古い家は大てい神別の家であり、家系は神代からつづいてきた。したがって、古代出雲民族の風習のいくらかを家風にもちその一例として語部の制も適してきた。語部は、W家の場合、一族のうちから記憶力が強く、家系に興味をもつ者がすでに幼少のころに選ばれ、当代の語部から長い歳月をかけ、一家の旧辞伝承をこまかしく語り伝えられるというのである。ある部分は他に洩らしてよく、ある部分は洩らしてはいけない。

 当代の語部はむろんW氏そのひとであり、W氏はすでにその子息のうちの一人を選んで、語りを伝えはじめているという。

(次号につづく)

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