2017年3月25日 / 最終更新日 : 2017年4月2日 times 父のアルバム 父のアルバム【50】おわりに 一年余の期間、亡き父と母、そして祖父のことを記してきた。あらかじめ十分な資料があったわけではなく、父のアルバム群を見た時に、とにかく執筆しようと思い立ったのである。 しかし不思議なもので、意識して探したわけでもないのに、 […]
2017年3月11日 / 最終更新日 : 2017年3月30日 times 父のアルバム 父のアルバム【49】第六章 八朔と生きる 私の家族四人が東京からUターンし、父と同居することになった。平成3年のことで、父は85歳であった。しかし、この同居は父にはストレスになり、2年たらずで私たちは隣町の私の継いだ家に引っ越した。 当時の父は、母との死別の打撃 […]
2017年3月4日 / 最終更新日 : 2017年3月29日 times 父のアルバム 父のアルバム【48】第六章 八朔と生きる 83歳を目前にした父が、全国に散らばって生活する息子や娘、そして親族あてに手紙を送った。そしてそれには、前年末に遺影のために撮影した写真が同封してあった。東京に住む私にもそれが届いた。昭和63年3月14日の日付である。 […]
2017年2月25日 / 最終更新日 : 2017年3月8日 times はっさく・柑橘 父のアルバム【47】第六章 八朔と生きる 昭和56年と表紙に記されたアルバムがある。父が七五歳のときのもので、自らの心境を何種類ものメモにして貼り付けている。その内容はいずれも初めて知った。それぞれを丁寧に読んでみる。 表紙裏には、「1981年、昭和56年は幸せ […]
2017年2月18日 / 最終更新日 : 2017年2月27日 times はっさく・柑橘 父のアルバム【46】第六章 八朔と生きる 祖父を継いだ父はわが家の畑に革命を起こした。それまでに誰も発想しなかった、電気を畑に引いたのである。そのことで、畑とそこでの作業は様相が一変した。 その正確な時期は定かではないが、「畑に電気を引いたんで!」と私に告げた父 […]
2017年2月11日 / 最終更新日 : 2017年2月27日 times はっさく・柑橘 父のアルバム【45】第六章 八朔と生きる わが家の畑には家族の歴史が沁みこんでいる。それを中心的に担った曽祖父、祖父、父の生き様がそこに刻みこまれていると言えよう。 3人とも、女系家族ゆえに養子として迎えられた。曽祖父は明治16年、愛媛県生名村から、祖父は明治4 […]
2017年2月4日 / 最終更新日 : 2017年2月27日 times はっさく・柑橘 父のアルバム【44】第六章 八朔と生きる 父のアルバムを見続けてきて思い知らされたことがある。 それは、私が大学に入学してからUターンするまでのおよそ30年間の父の生き様をほとんど知っていないという事実である。ということは、その期間は没交渉だったということになる […]
2017年1月28日 / 最終更新日 : 2017年2月14日 times 因島高校 父のアルバム【43】第五章 苦難を越えて 私の大学受験戦争は高校1年の2学期から始まり、2年の秋に頂点に達し、それ以後、その水準を辛うじて維持することでめでたく最終目標に到着した。この過程での母の存在は大きく、母としてできる協力を全てやってくれた。 日頃から厳し […]
2017年1月21日 / 最終更新日 : 2017年1月30日 times 父のアルバム 父のアルバム【42】第五章 苦難を越えて 今回の写真は、父のお気に入りの母・行(ゆき)の写真である。これはどこかの写真館で撮影したもので、何枚も残っている。アルバムに3枚、他にそれぞれ大きさの違う三つの額に収まっている。おそらく父は行の死後、これらの写真の中にい […]
2017年1月14日 / 最終更新日 : 2017年1月24日 times 父のアルバム 父のアルバム【41】第五章 苦難を越えて 保育所長を退職した行は、家庭を守ることに専念した。夫を公私両面で支えるとともに、五人の子供の就職、進学、結婚に力を入れた。 父が椋浦小学校から田熊小学校に転任した年に行は退職した。全校生徒50人の小規模校から千人規模の学 […]
2016年12月24日 / 最終更新日 : 2016年12月31日 times 父のアルバム 父のアルバム【40】第五章 苦難を越えて 今回掲載した写真は、アルバムの「2人で」というタイトルのついたページに収録されている。特別な想いがこもっていたのであろう、「空襲20・7・28 残った納屋のこわれかかった家の前 36年1月」との説明がついている。 実はこ […]
2016年12月17日 / 最終更新日 : 2016年12月29日 times 父のアルバム 父のアルバム【39】第五章 苦難を越えて 空前のヒット曲になった「お富さん」。材を歌舞伎の「通称切られ与三郎」にとったという。当然、子供には、「粋な黒塀」「見越しの松」「仇な姿」などの意味など分かりはしない。そもそも「お富さん」とは何者なのか。男それとも女なのか […]
2016年12月10日 / 最終更新日 : 2016年12月29日 times 因島椋浦町 父のアルバム【38】第五章 苦難を越えて 父にとって10年4カ月間の椋浦時代は、教師としての円熟期だったのではないだろうか。その後、2年間他校の校長を務めたが教育委員会に移り、教育現場から去った。 椋浦小学校百周年記念誌への寄稿文に父は、 「椋浦教育の道を求めて […]
2016年12月3日 / 最終更新日 : 2016年12月18日 times 因島椋浦町 父のアルバム【37】第五章 苦難を越えて ひとりも子供を産んだ経験のない行に突然、5人の子供ができた。いくら気丈夫な行といえども戸惑ったに違いない。彼女を一番てこずらせたのは、最も「母」を必要としていた5歳の末っ子の私であった。 兄や姉と違って私は、母としての行 […]
2016年11月26日 / 最終更新日 : 2016年12月7日 times 父のアルバム 父のアルバム【36】第五章 苦難を越えて 父の妻清子の死は突然訪れた。盲腸炎の入院が遅れたのである。昭和25年7月23日のことである。 清子は肺結核を患い、自宅療養中であったが、まさか盲腸炎で他界するとは誰も予想しなかった。担ぎ込まれた因島総合病院の病室で生と死 […]
2016年11月19日 / 最終更新日 : 2016年12月7日 times 椋浦小学校 父のアルバム【35】第五章 苦難を越えて 父や行の「不幸」や「苦難」を私は想像したことがなかった。再婚して間もないふたりは、5歳の私には幸せに見えたし、希望に溢れているように思えた。それ以来、そのことを信じて疑わなかった。 子にとって父や母というものは絶えず強く […]
2016年11月12日 / 最終更新日 : 2016年11月20日 times 父のアルバム 父のアルバム【34】第五章 苦難を越えて 父はアルバムのあるページに「二人三脚・一心同体」と大きな見出しをつけ、再婚記念の写真を貼り付けている。それが下段の写真である。 その写真の脇に次のように記している。 ―私達は連れ合いを病死別し不幸となったので幸せになるた […]
2016年11月5日 / 最終更新日 : 2016年11月20日 times 因島三庄町 父のアルバム【33】第四章 新しい出発 死後30年が過ぎた今日、行の保育事業に遺した業績を知ることができて実に嬉しい。アルバムにその記録がなければ永遠に気付かなかったことであろう。父に感謝せねばならない。 私は地元紙の記者としての経験を積むことで取材とかインタ […]
2016年10月22日 / 最終更新日 : 2017年3月8日 times 三庄保育所 父のアルバム【32】第四章 新しい出発 次兄の大病という家族の危機を乗り越えた行に転機が訪れる。昭和29年、三庄保育所が新築移転されたことに伴い、因島市初の女性管理職所長として就任した。私が小学校3年の頃である。 青木行(あおき・いく)は住む椋浦から勤務先の三 […]
2016年10月15日 / 最終更新日 : 2016年10月25日 times 父のアルバム 父のアルバム【31】第四章 新しい出発 肺結核を患い、医師にも見放された夫の看護に献身した青木行(あおきいく)の奮闘ぶりを新聞記事で読み、幼かった次兄の病気のことを思い出した。 次兄は小学校3年生のころ左足関節に結核を発症し、生死の境をさまよったことがある。ち […]
2016年10月8日 / 最終更新日 : 2016年10月18日 times 父のアルバム 父のアルバム【30】第四章 新しい出発 昨年の夏、思わぬところで青木行の話題が出た。 太平洋戦争末期の空襲のことを聞くために、倉敷市に住む三浦勉さんを訪ねた時のことだ。彼は当時、日立造船因島工場(昭和18年3月、大阪鉄工所を日立造船に改称)勤労課の社員であった […]
2016年10月1日 / 最終更新日 : 2016年10月13日 times 父のアルバム 父のアルバム【29】第四章 新しい出発 父はアルバムに青木行(あおきいく)についての中国新聞の記事を貼り付けている。昭和17年5月1日のもので、大阪鉄工所因島工場時代のエピソードが記されている。 「産業戦線美談 忍苦の妻に春甦る」という見出しの戦時美談記事であ […]
2016年9月24日 / 最終更新日 : 2016年10月5日 times 父のアルバム 父のアルバム【28】第四章 新しい出発 私が松本籍から青木籍に移ったのは高校三年の時である。青木行(あおきゆき)がひとりで守っていた青木家に私が養子に入り、父と再婚した行が松本家に入った。したがって、青木家を語り継いでいく使命は私にある。 父がアルバムに遺した […]
2016年9月17日 / 最終更新日 : 2016年9月22日 times 三庄保育所 父のアルバム【27】第四章 新しい出発 戦後まもなく産声をあげた保育所に情熱をかたむけた私の養母である松本行(ゆき、旧姓青木)は昭和29年9月、女性として初めて三庄保育所の専任所長に任命される。それからおよそ4年間、その職務を全うする。退職後は主婦業と農業に専 […]
2016年9月10日 / 最終更新日 : 2016年9月15日 times 因島椋浦町 父のアルバム【26】第四章 新しい出発 父の戦後のアルバムは30冊近くあるが、そのなかにずば抜けて整理された2冊を見つけた。それらには「行さんの面影」とタイトルが付けられている。 「行さん」とは、父が椋浦町で運命的に出会い、妻の死後に再婚し、戦後の人生を共にし […]
2016年9月3日 / 最終更新日 : 2016年9月15日 times 因島椋浦町 父のアルバム【25】第四章 新しい出発 敗戦そして占領は、父の新しい出発の舞台となった。 私の父―松本隆雄は、敗戦の翌年の1946年(昭和21)12月、椋浦小学校に新任の校長として赴任し、1957年(昭和32)3月までのおよそ十年間勤務した。父にとって椋浦小学 […]
2016年8月27日 / 最終更新日 : 2016年9月3日 times 因島三庄町 父のアルバム【24】第三章 教師の信念 父のアルバムや文章を道しるべにした昭和の旅は、戦前と戦後の区切りである20年にたどり着いた。父と息子との間の深い溝を越えよう意図は、ある程度達成したのではないだろうか。 私たちの世代にとっては、戦争の時代としての昭和史は […]
2016年8月20日 / 最終更新日 : 2016年9月3日 times 父のアルバム 父のアルバム【23】第三章 教師の信念 「昭和十九年頃のこと」に込めた父の想いは、私にも襲いかかった。その発端は家族をめぐる言い争いだった。 私は高校3年になった時、養母の家を継ぐために松本籍から青木籍に移った。それ以来、松本家に対して次第に関心が薄れていった […]
2016年8月13日 / 最終更新日 : 2016年8月18日 times 因島三庄町 父のアルバム【22】第三章 教師の信念 「昭和十九年頃のこと」に戦時下の教育を担った男としての意気を感じる。父の気概、気骨が私に迫るのである。 戦時下の体験を戦後という時代に語ることは決して容易ではない。とりわけ企業城下町においてはなおさらそうである。そうした […]
2016年8月6日 / 最終更新日 : 2016年8月18日 times 父のアルバム 父のアルバム【21】第三章 教師の信念 前回に全文掲載した父の「昭和19年頃のこと」は、私が生まれ故郷で自信をもって生き直していくうえの「バイブル」になった。 昭和19年とは私が生まれた年である。何回読み返し、何回文章に引用しただろうか。叶うなら、この文章につ […]