父のアルバム【25】第四章 新しい出発

敗戦そして占領は、父の新しい出発の舞台となった。

私の父―松本隆雄は、敗戦の翌年の1946年(昭和21)12月、椋浦小学校に新任の校長として赴任し、1957年(昭和32)3月までのおよそ十年間勤務した。父にとって椋浦小学校は、公私ともに運命的な出会いの場所になった。

同校創立百周年記念誌に父は次の一文を寄せている。

―終戦の翌年就任=町の方々に暖かく迎えられる。美しい校舎と純真な児童が魅力。十年間在任を決意する。

私は実家で、額縁におさめられた寄書きを発見した。それは、1981年(昭和56)8月15日に椋浦小学校卒業生によって開かれた「松本隆雄先生を囲む会」で作成されたものである。それに父は、「私の心のふるさと椋浦」と記している。

父が椋浦小学校に赴任したころの状況はどのようなものだったのだろう。「椋浦学校史」に次の記述がある。

―終戦を前後に、向井節子、吉平芳栄、松本隆雄先生があい継ぎ赴任、複々式のところを複式三学級による編成で、激動の戦後教育が組織的に始まり、椋浦教育の新しい土台づくりが始動した。

三つ児の魂百までと言うが、幼児教育の重要さに目をつけ、その実現に情熱と月日を費やした教師集団のまとまりが生まれた。その先導者は松本隆雄校長である。

昭和23年、小学校教室に幼児学級開設。24年、青木行、村上峯子両保母による非公式ながら小学校附設保育所が発足した。

昭和25年4月には、因島第一号の保育所認可による椋浦保育所が設置された。小学校職員室と併設の保育所が町民の援助、協力によって落成し、幼少一貫の十か年教育計画が、整った施設の中でその第一歩をふみ出した。

複々式とは一年から三年までが一組、四年から六年まで一組。複式は、一年と二年が一組、三年と四年が一組、五年と六年が一組。「学校史」によると同校の児童数は、明治・大正・昭和と各学年数人前後、一時疎開児で児童が増加したが全校児童は35人前後を維持した。しかし、昭和38年ころから30人をきり、以後減少をつづけた。

小規模の小学校に父は、新しい教育の息吹を感じたのではないだろうか。そうした意気込みが、いかにも父らしいと思えてならない。

敗戦後父が赴任した椋浦小学校の校舎。現在も残っている。

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