ふるさとの史跡をたずねて【329】余所国小学校跡(今治市宮窪町余所国)

余所国小学校跡(今治市宮窪町余所国)

かつて中島忠由氏が水軍時代の因島大浜町に共同租界地があり、軍監などが派遣されていたということを記された。そしてそこを「余所国(よそのくに)」と呼ぶとも。しかし、因島でそのような文書を見たことはないし、大浜町で「余所国」という地名の痕跡も探すことはできなかった。
ところが何と、「余所国」が大島にあったのだ。

見近島と大島の間にある大島大橋の、大島側の橋の下を通って西に向かうと両社明神社がある。その西隣が小学校の跡地で、校舎は残ってなくて門柱があり、元校庭の片隅には二宮金次郎の像が建っていた。門柱の標札は無かったが、その前に門柱設置の時の寄附石が残っており、それには「余所国尋常小学校…」と書かれており、かつての村名が「余所国」であったことがわかる。今は字(あざ)名として残っている。しかし、残念ながら期待したように「よそのくに」とは呼ばず、「よそくに」である。でも、残念がる必要はない。「余所国」と書いて「よそくに」と呼んだとしたら、あるいは「余所国」を意味する言葉を「よそくに」と言ったとしたら、日本語的に不自然である。だから、元は「よそのくに」であったに違いない。それがいつしか「の」が脱落して「よそくに」と言われるようになったに違いない。

だから、共同租界地を期待していたが、そのような史実は出てこない。近隣の人たちが自分達を「内方」、別のところ(今の余所国)を「余所国」と呼んだと言う説がある。また、このあたりだけが小早川氏の支配地だったからだと言う説もあるようだ。

さて、因島村上氏6代吉充は隠居の身で関ヶ原合戦後、毛利氏に従い長州矢田間に行くが、ほどなく領地を返して弓削、大島余所国を経て、予州佐方(現今治市菊間町)へ行ったという伝承がある。この話の中に、元共同租界地ではなかったにしても、どこか治外法権的な雰囲気が無くもないが、なぜ大島余所国経由なのか書いたものは未見なので、これ以上書いても妄想のレベルを出ない。

写真・文 柏原林造

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