空襲の子Ⅱ【60】十年間の調査報告 辿りつきしところ(1)

 絶えず旅をしていたような想いである。そして今、ようやくそれも終わりを迎えたようだ。
 生を受けたところとは違う隣町の椋浦で保育所と小学校を過ごした。中高へは実家のある三庄町から通学。大学は広島市である。その中途で上京し、そこに骨を埋めるつもりだった東京の二十数年間。因島に帰ってきて年月が早くも20年を超えた。そのすべてを懸命に生きてきた。しかし何かが足りない、どこか虚しかった。


 人生を通して探し求めていたものが何であるか、ようやく辿(たど)りついたようだ。私が生まれた昭和19年10月から私を生んだ母・清子が死んだ昭和25年7月のおよそ6年間に何があったのか。誰も教えてくれない、その時間と空間の出来事。当然のことだが、当時の私には、自力で認識する術もない。だがまさに今、その失われた六年間の探求に狙いを絞りきることができたのだ。
 廻りめぐって旅の終わりにようやく、一番知りたかったものが手の届くところに見えるようになった。やはり私の幼き生命は、魂と肉体をもって味わった恐怖、苦痛、悔しさ、怒り、憎しみ、悲しみ、喜び、そのすべてを忘れていなかったのだ。そのことが何よりも喜ばしい。
 私もきっと軍国少年になるべく誕生したのだろう。生まれた家は軍需工場の目と鼻の先。両親は空襲を受けることを覚悟で私を生んだのだろう。それでよかったのだ。生んでくれたことを決して恨んだりはしない。そして母は祖母とともに爆撃から私を守ってくれた。
その直後に結核を発症した母は、私の育児を放棄せざるを得なかった。私と別居し、私を実家に住む祖父母に託した。やがて母との同居は叶ったが、それもつかの間、母は急逝した。悲しいことだが、母の暖かみの記憶は片鱗さえもない。
 しかも新生活をスタートさせるためには、亡き母を忘れることが必要不可欠になった。今想うにそれは酷いことであった。父は遺言のように、「今お前が生きておれるのは、あの時にお母さんとお婆さんが身を挺してお前を守ってくれたからだ」と言った。ということは、母は二度にわたって私を生んだということなのか。
 母を忘れるということは、私が母とともに生きた時代を捨て去ることを意味した。それは、戦禍をわれさきにと忘れることを急いでいた時流に合致した。こうして私は、快活さ溢れる子供に成長していった。しかしそれは、社会に媚びようとする、見せかけの姿だったのではないか。
 考えてみてほしい。誕生からの6年間を喪失した子供がどのように育っていけばよいのか。当然、もう一人の自分を自ら形成しなければならなかった。そうして私は、ふたつの人間像の相克を通して自らの進路を探し求めていった。大事なことは、誰にも相談することなくすべて自分で決めた。自ずとそのような子供になっていった。
 長い長い旅路であった。五歳のときに死別した母にあたかも招かれるように、家族をつれて生まれ故郷に帰ってきた。不思議と言うしかない、あり得ない選択だった。やがて、数々の迷いと怯えを乗り越えて、空襲調査に踏み切った。それは亡母の手招きに応えて、ともに生きた時代へとタイムスリップするような感覚さえ伴う。時空を超えて、母と会話ができそうなのだ。
 確かに、もっと早く真相を知り得たならば、その経験を土台に自信に満ちた日々を過ごすことができただろう。しかし歴史的な大事件を即時に、リアルタイムに知ることは非現実的で不可能なことだ。
 ここまでやってこれたのは、人生がそれなりの成熟をみせたからであろう。数々の失敗と挫折、紆余曲折など、多くの経験が空襲調査に注ぎこまれている。目標は定まった。もう逃しはしない。
(青木忠)

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