空襲の子Ⅱ【28】十年間の調査報告 防空壕の今(8)

大戦末に戦場となった三庄町の一帯は戦後、すっかり変貌している。そこに、造船所があったことさえ伺えない風景である。


昭和26年(1951)4月、三庄工場が閉鎖。昭和29年(1954)8月、ふたつの乾船渠が使用休止。建物等は撤去され、昭和31年(1956)にドックも埋め立てられ、その跡地に翌年、日立造船の社宅が建てられたのである。現在はそれもなくなり、老人福祉施設と企業の従業員寮が建てられている。

ところが皮肉にも、役割を終え、みなから忘れ去られようとした防空壕群が今なお確固として存在し、今なお往時を想い起させるのである。三庄町の家老渡から平木(五区)に向かう道路を防空壕街道と呼んでもよいであろう。軍需工場と一体になった地域であり、工場が空襲を受けた場合は、必ず巻き込まれざるをえないゾーンであると想定されていたに違いない。

神田地区にある工場と密着した防空壕のすべては、役割が決められていたようだ。旋盤工場で働いていた学徒動員の土生高女生は、その真前に掘られた壕に入るようになっていた。

おそらく因島で最大規模と思われる森神社下の大防空壕は、従業員と住民が避難した。入口が3カ所あり、なかで繋がっている巨大な壕である。入口が従業員用と住民用とに区別されており、集まる場所も別々になっていた。当然のことではあるが、いったん入ると勝手に外にでることはできなかった。トイレは壕内にはなかったと聞く。

このすぐ近くに弾薬専用の壕があり、兵隊3人が警備のために立っていたという。三庄工場内で爆弾を製造していたと言うから、その一時貯蔵庫であったかも知れない。神田地区は居住区域にも壕が掘られており、空襲の際には、近くの住民がそれに避難していた。工場とその周辺だけではなく地域全体が覚悟を固めていたようだ。

大浜町と椋浦町 大浜町の斎藤神社2カ所に防空壕があることが分かった。さらに椋浦町の艮神社近くにも壕が掘られていたと教えられた。これらはいずれも、軍需工場や軍用地からかなり離れた場所である。調査の途中で即断はできないが、因島全体が空襲に備えて身構えていたと推測できるだろう。

戦後67年も経た今回の防空壕調査であった。該当地域の住民の方々の協力を受けて成果をあげることができた。工事や造成などで消滅したものがかなりあるという状況のなかで、防空壕のありかを案内していただいた。こうした活動のなかで今なお、防空壕がその付近に住んでいる人たちにとって忘れられない存在でありつづけていることに気付いた。次の三点が理由であるようだ。

第一に、避難した経験を有している人がかなりいるということである。例えば80歳の方は当時、13歳であったのだから、記憶も鮮明と言える。

第二に、避難した記憶がなくとも、祖父母や両親から聞いたことのある人がいた。重井町のある方は、自分の祖父から「自分たちが掘った」と聞いたと語った。

第三に、防空壕が遊び場であった世代が広範囲にいることである。実際、子供のころそこで遊んでいたという話を聞くことができた。

私の実感であるが、「防空壕はウソをつかない」と思った。これだけの戦争遺産があるというのに、地域近現代史の研究に生かされていないとはどういうことか。近現代における地域史そのものから目を背ける傾向が依然として強いのは、いかなる理由なのか。

次回から、因島空襲はなぜ、どのようにして隠蔽されてきたのかにテーマを移そう。それは私にとって十年間の謎であった。

(青木忠)

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